お雪の乳房〔おゆきのちぶさ〕
初出掲載誌 『オール讀物』 昭和四十四年ニ月号
文春文庫 『鬼平犯科帳(ニ)』
TV 第三シーズン64話『忠吾なみだ雨』(92年4月28日放送)
脚本:下飯坂菊馬
監督:小野田嘉幹
〔本のおはなし〕
(こうなっては・・・・・・もう、いけねえわさ。このあたりが、わしも足の洗いどきだ)
と、鈴鹿の又兵衛は、ついに決意した
いま、又兵衛は、江戸に住み、芝・横新町に〔しころや〕という小ぢんまりとした煙草屋の店をひらいていた
又兵衛が、中国すじでの大仕事を終え、久しぶりに江戸へ入ったのは、寛政元年の夏であった
当時、すでに長谷川平蔵は、火付盗賊改方の長官として、快刀乱麻の活躍をつづけていたし、
「鬼の平蔵とやらいうお人が、あばれていなさる間は、こっちもゆっくりと骨やすめをしておこうかい」
はじめのうちは鈴鹿の又兵衛も、おっとりかまえていたのだけれども、火盗改メの活動はやむことを知らぬ。次々に、大盗・怪盗が召捕られ、または現場において斬り殺されるというすさまじさに、江戸市中にひそみかくれていた盗賊たちも、少しずつ、他国へ散ってしまったようだ
(もう、いけねえわさ)
と、鈴鹿の又兵衛は、廃業を決意した
「もう、わしも寄る年波だ。それに・・・・・・このごろは、お雪がむすめざかりになってくるにつれ、わしのほうが、めっきりと気落ちをしてしまい、足を洗いたくなったのだ。お雪だとて、近いうちには嫁にやらざあなるめえ。そうなりゃあ、相手の男のもちものとなってしまうのだ。せめて、それまでの短けえ間、父娘いっしょに暮してみてえのよ」
お雪のほかに、子のない又兵衛であった
いま、十八になるお雪は、浅草・田原町一丁目の足袋屋で〔つちや善四郎〕方に暮らしている
〔つちや善四郎〕は、又兵衛の亡妻およしの弟にあたり、いまは足袋屋そのものになりきっているが、もとは又兵衛の配下だった四十男で、いまだ独身(ひとりみ)である
「お父さんはいま、上方のほうで商売をしていなさる。もうじきに、お前を引きとりに来なさるから、たのしみに待っておいで」
亡母のかわりに、そういってくれる叔父・善四郎のことばを信じきって、お雪は、父が盗賊であることなど、ゆめにもおもってはいない
その夜
又兵衛から引退のことを告げられた梅原の伝七は、しみじみと、老いた頭目の顔をうちながめ、
「よろしゅうございます」
大きく、うなずいた
鈴鹿の又兵衛、別に異名を〔川獺(かわうそ)〕という
しわの多い、渋紙色のちんまりとした又兵衛の老顔や、細身の小さな体躯には、長年の盗賊暮しの疲労が、はっきりと浮き出していた
その翌日の昼近くになって、田町三丁目の蕎麦屋〔まきや〕の小僧が、結び文を、
「旦那さんへ」
と、とどけて来た
見ると、まぎれもない義弟の〔つちや善四郎〕の筆で、「急ぎ、おこし下さるべし」と、ある
〔まきや〕の蕎麦は、又兵衛も好きだから、よく出かけて行く顔なじみの店であった
「これは義弟さん。わざわざすみません」
二階の小座敷に、又兵衛を迎えた善四郎の顔色は青ざめていた
「善さん。どうしたえ?何か、お雪に・・・・・・?」
「へい、へい」
「何だって・・・・・・お雪の身に何かあったのか?」
そこへ酒がはこばれて来た。女中が出て行くのを待ちかねたように、善四郎が、
「義兄さん、どうも、とんでもないことになってしまいました」
「お雪に・・・・・・何かえ、お雪に・・・・・・」
「へい、虫がつきましたんで」
「むし・・・・・・わ、悪い虫かえ?」
「いえその・・・・・・人柄はよし、男ぶりもよし、ま、相手にいうところはないのですが・・・・・・」
「ふうむ・・・・・・お雪も、その男が好きなのか?」
「へいへい、それはもう。昨日の夕方に、その男が私のところへやって来まして、お雪を女房にしたい、こう申しました」
「ふむ、ふむ」
「その男は、こう申します。自分は両親もいず兄弟もない。これでもさむらいのはしくれゆえ、町家育ちのお雪さんを妻に迎えるにはいろいろとめんどうだが、けれども方法はいくらもある」
「相手は、さむらいとね・・・・・・」
「実は、そのさむらいと申すが・・・・・・火付盗賊改メの同心で、木村忠吾というお人なので」
「げえっ・・・・・・」
さすがの川獺の又兵衛も、これには仰天をし、手にとっていた盃を落としたまま、二の句がつげなかった
そのころ・・・・・・
火付改メ・同心の木村忠吾は、足袋屋善四郎の留守をさいわい、新堀端の竜宝寺門前までお雪をよび出し、松月庵という〔しる粉屋〕で逢引をしていた
当時の〔しる粉屋〕というやつ、現代(いま)の〔同伴喫茶〕のようなもので、甘味一点張りと思いのほか、ところによっては男客のために酒もつけようという・・・・・・松月庵の奥庭に面した小座敷で、早くも木村忠吾、桃の花片(はなびら)のようなお雪のくちびるを丹念に吸いながら、八つ口から手をさし入れ、固く脹ったむすめの乳房をまさぐっている
「ああ、もう・・・・・・お雪とこうしていると、おれはもう、お役目なぞどうでもよくなってしまう。ああもう、たまらない。お前と片時もはなれてはいられないのだよ」
などと他愛のないことを口走りつつ、忠吾はお雪のえりもとを押しひらき、南天の実のような、紅くいじらしい乳首を吸いはじめる。お雪はもう、全身のちからをうしない、ぐんにゃりと忠吾の腕にもたれ、両眼を恍惚と閉じ、あえぎにあえぐばかりであった
二人が、はじめて出会ったのも、この竜宝寺門前であって、三月前のそのとき、お雪は飯たき婆のおかねをつれて新堀端を通行中、酔いどれの無頼浪人二人にからまれ、いたずらをされかかった。折しも晩夏の夕暮れどきで、木村忠吾は一人で、浅草方面を巡回しての帰途、この場面を目撃した。
(どうも強そうなやつらだ。しかも二人・・・・・・ま、知らぬ顔をしておこうか・・・・・・)
と、腕力に全く自信のない忠吾は、見て見ぬふりで通りすぎようとしたが、同時にまた、お雪の美しさにも瞠目した
(ああ、美(い)い女だ・・・・・・)
たまらなくなり、恐怖も忘れて飛び出し、おもいきって、
「こら、やめい、火盗改メ同心・木村忠吾だ。きさまらはどこの者か!!」
夢中でわめくや、なんと、凄味たっぷりの無頼浪人ふたり、
「火盗改メだ」
「いかん、逃げろ」
まっ青になり、一散に逃げかくれてしまった
長谷川平蔵の威望、おもい知るべしである
「これ、むすめさん。怪我はないか。よし、家まで送ってやろう」
と・・・・・・これから二人が知り合い、以後は三日にあげず、木村忠吾が足袋屋の前通りにあらわれると、これを見つけたおかねが、すぐさまお雪を引っ張り出すという寸法。この三月の間に、忠吾はお雪の処女(むすめ)のあかしをも頂戴してしまい、そうなると矢も盾もたまらず、ついに、
(夫婦になろう)
と、決意したものである
やがて、しる粉屋を出た二人、迎えに来たおかね婆とお雪は田原町へ、忠吾は、まっすぐに清水門外の役宅へもどって行った
長谷川平蔵は、居間の陽あたりのよい縁側へ出て、妻女の久栄と共に、幼女のお順と遊びたわむれていた
「実は、御頭・・・・・・」
顔面を紅潮させ、居間に面した庭へあらわれた忠吾がすべてを語るのを聞き終え、平蔵は妻女と顔を見合わせ、くすりと笑った
「その、お前が逢引につかっているしる粉屋の入れこみのところへ連れてこい。おれが、そっと見てやる。なに、顔さえ見ればどんなむすめか、わかるともさ」
「はっ、はっ」
「いい女なら、おれがうまくはかろうてやる」
「はっ、はっ」
ところが、その翌日になって・・・・・・・
もう有頂天の木村忠吾が、足袋屋善四郎方へ駆けつけると、
「お雪は昨日の暮れ方から、別の親類のところへあずけましてございます」
善四郎が切口上でいったものだ。。。
〔主な登場人物〕
長谷川平蔵(中村吉右衛門)
お雪(喜多嶋舞)
鈴鹿の又兵衛(高松英郎)
つちや善四郎(山田吾一)
梅原の伝七(三上真一郎)
木村忠吾(尾美としのり)
久栄(多岐川裕美)
おまさ(梶芽衣子)
相模の彦十(江戸家猫八)
〔盗賊〕
・鈴鹿の又兵衛:若いころから諸国をまたにかけた盗賊で、全盛期には七十余名の配下をかかえ、あの蓑火の喜之助や夜兎の角右衛門などと共に、かつての盗賊界では幅をきかせた頭目である
・梅原の伝七:配下の中でも又兵衛の右腕といわれる
・鴨田の善吉:又兵衛の片腕とよばれた腕っこきで、又兵衛の亡妻およしの弟にあたり、いまは足袋屋善四郎となっている
〔商家〕
・〔しころや〕:芝・横新町の小ぢんまりとした煙草屋。又兵衛の現在の盗人宿
・〔つちや善四郎〕:浅草・田原町の足袋屋
・〔まきや〕:田町三丁目の蕎麦屋。寿命稲荷の横丁を本通り(東海道)へ出ると、その向う側に〔まきや〕がある
・錦や:又兵衛の煙草屋の真向いにある蜆汁が名物の店
・〔大国屋金次郎〕:芝・松本町の明樽問屋。近辺にきこえた資産家で、赤羽橋の南がわに、堂々たるかまえを見せていた。又兵衛が急ぎ盗(ばたらき)のねらいをつけた
・湊や:小田原城下の万町で笠や合羽を売る店。お雪と善四郎が逗留する
〔料理帳・本〕
この小さな煙草屋・主人の又兵衛は隠居のかたちで、めったに店先へあらわれぬが、番頭の庄之助、店のもの二人は、いずれも配下の者である。彼らの男手でこしらえた栗飯にとうふの汁、甘鯛の味噌漬などが膳にのぼった
「温和(おとな)しくて、いつもにやにやしているのはよいが、いざとなると、やはり鈍間(のろま)よ」
と、火盗改メの与力・同心たちは苦笑しているようだ。
芝・神明前の菓子舗〔まつむら〕で売っている〔うさぎ饅頭〕そっくりだというので、
「兎忠さん」
などとよばれている木村忠吾だが、女には惚れっぽいし、また手を出すのも、なかなかに素早いのである
〔料理帳・ドラマ〕
葛切り、平蔵、役宅にて
平蔵「おっ、葛切りか」
久栄「木村どのが、芝で評判の店で求められたとか」
平蔵「忠吾め、また何か魂胆があるな。奴がみやげを買って帰って来る時は、必ず何かある」
蕎麦、又兵衛と善四郎、〔まきや〕にて
しる粉、忠吾とお雪、松月庵にて
お雪「木村さま、おしる粉がさめます」
忠吾「しる粉など、どうでもよい。あたしはな、お雪が・・・・・・」
お雪「でも、恥ずかしい」
忠吾「恥ずかしいことなどあるものか。私達はもう幾度も・・・・・・」
お雪「いえ、木村さまはいつもおしる粉に手をつけないので、お店の方がどう思うか」
忠吾「しる粉は部屋の代金代わり。みな、その寸法だよ」
蜆汁、沢田ほか、見張り所にて
〔ドラマでのアレンジ〕
平蔵から「お雪をあきらめろ」と言われた後に、彦十とおまさの前で忠吾が男泣きするシーンはドラマオリジナル、原作では山田市太郎と自宅で熱燗を一杯やりながら、お雪の乳房(おっぱい)を懐かしむ。
忠吾「お雪は美い女だった。名前の通り色が白くて可愛かった。俺は、もう二度とあのような女と巡りあうことはないだろうよ」
おまさ「木村さま」
忠吾「お雪、勘弁してくれよ。俺は駄目な男だ。本当はさむらいなんかやめて、お前のところへ飛んで行きたい。だが、駄目だ。勘弁してくれ、お雪・・・・・・」
彦十「どうなすったんですよ、木村さま」
おまさ「いいんです。私もこれでほっとしました。木村さまが平気でいなすったら、お雪ちゃん、あんまりかわいそうですもの」
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