鯉肝のお里〔こいぎものおさと〕
初出掲載誌 『オール讀物』 昭和四十七年十月号
文春文庫 『鬼平犯科帳(九)』
TV 第三シーズン48話『鯉肝のお里』(91年11月20日放送)
脚本:田坂啓
監督:小野田嘉幹
〔本のおはなし〕
月も星もない暗夜であった
凩(こがらし)が空に鳴っていた
牛の草橋へかかった女が、
「おや・・・・・・?」
と、つぶやき、手にしたぶら提灯を橋板の一角へさしつけて見た
橋板に、若い男がひとり、ぐったりと横たわってい、顔へさしつけられた提灯にちからなく眼を開けたが、ものもいわぬ
「お前さん、どうしたのさ、躰のかげんでも悪いのかえ?」
と、女のほうから声をかけた
「う、う・・・・・・」
「どうしたえ?」
「は、腹がへって・・・・・・うごけません」
女が、ふき出して、
「なあんだ、そうだったのかえ」
若い男は、饅頭笠をくびにかけ、髷(まげ)のかたちもわからぬほどの蓬髪で、洗いざらしの木綿縞の着物の裾を端折り、つぎはぎだらけの股引、素足にすり切れかかった草鞋をつけている。その傍に、縄で括った炬燵のやぐらが二箇、ほうり出されたかのように置いてあった
「兄さん、立てるかえ。立てるなら、ちょいとお歩き、歩けたらあたしの後からついておいで。ついて来たら、何か食べさせてあげよう」
いうや、後をふり返りもせずに、女が牛の草橋をわたって行った
この女、名を、
〔鯉肝のお里〕
といい、火付盗賊改方の女密偵・おまさも、
「見たことはないが、何度も名をきいている」
ほどの女賊である
「来年の花どきごろから仕度にかかってもらうつもりだから、そのつもりでいてくれ」
と、念を入れられているお里だが、その間は、じゅうぶんに羽をのばし、好きなものを食べ、好きな博奕をたのしみ、好きな男を抱いて暮すつもりでいる
現に今日も・・・・・・
お里は行きつけの化粧品屋で、湯島切通し坂下の〔丁子屋〕の手代・徳次郎を、上野不忍池のほとりにある出会茶屋〔月むら〕へさそい出し、たっぷりと若い男の肌を楽しんできた
むろん、徳次郎へは相当の〔小づかい〕をやる。つまり、女のほうで男を買うわけだ。お里にとっては、これがたまらなくおもしろく、たのしみなことであった
このごろ江戸へ来ると、お里は、三ツ橋とは眼と鼻の先の、柳町の横町に住む煙管師・松五郎の小さな家に泊まりこむ
七十に近い松五郎は、以前からの独り暮しで、尾張町四丁目の煙管問屋〔倉田屋〕へ品物をおさめ、大事にされているほどの腕をもっているが、二十年前までは〔長虫の松五郎〕とよばれて、盗賊界でもきこえた男だったのである
(まさか、松五郎さんのところへ、こいつをつれても行けないし・・・・・・)
歩みつつ、お里はうしろを振り返って見て、くすりと笑った
炬燵やぐら売りの若い男が、ふらふらと後からついて来ている
犬の遠吠えが、どこかでしている
橋のたもとの、京橋川を背にして、
〔のっぺい汁・いちぜんめし〕
の掛行灯が見えた
ここは〔大根や〕という飯屋だ。土地(ところ)の者で知らぬものはいない
〔大根や〕は、中年の亭主夫婦に小女がひとり、小さな店だが、なかなかに繁昌をしていた
ひとしきり、たてこんでいた客が去って、お里が大根やへ入ったときは、土間に面した入れこみの畳敷きの片隅に、何やら行商の小荷物を傍にした埃くさい女がこちらに背を向け、熱いのっぺい汁をすすっているだけだ
自分の後から、のっそりと、大根やの土間へ入って来た炬燵やぐら売りの若者に、
「来たね、約束だ。たんとおあがり」
お里が、やさしげにいった
「すんません」
若者は、汁と飯へかぶりついた
「お前、名は何というのさ」
「い、岩吉・・・・・・」
岩吉は、あっという間に汁を三杯、飯を七杯もつめこんでしまうと、
「雪隠(せっちん)は、どこかね?」
小女にきき、土間の奥へ入って行った
さ、それからだ
それから、いつまでたっても出て来ない
ずいぶんと長く便所に入っているようだ。お里は尚も待っていたが、ついにたまりかね、小女を手まねきし、
「雪隠へ行った兄さんは、どうしたの?」
と、きいた
小女は困惑の表情で、土間の奥の板場をふり返った
「かまうもんかい。あたしが、あの女にいってやるよ」
気色ばんだ女房の声がきこえたのは、このときである
そして、つかつかと肥った女房が土間へあらわれ、お里の前へ来て、白い眼でにらみつけた
「ちょいと、雪隠へ行った・・・・・・?」
いいかけるお里へ、大根やの女房がぴっしゃりと押しかぶせた
「裏から帰しましたよ」
さすがに、お里も声を荒らげ、
「お前さん、ずいぶん勝手なまねをするじゃあないか」
すると女房が、興奮して、
「あんな・・・・・・あんな世間知らずの、まじめな若い者をたぶらかそうなんて、罪が深いじゃありませんか、え、おかみさん、そうじゃありませんか」
「この馬鹿、何を勘ちがいしていやがる」
ぐいと一突き、突き飛ばした女房が土間へ尻餅をついた、その顔へ小判を一枚たたきつけて、
「勘定だ。もし釣銭があったら、血の道の薬でも買っておのみ!!」
ぱっと身をひるがえし、外の闇へ消えてしまった
と・・・・・・
すぐに、その後から、入れこみの片隅にうずくまっていた小間物行商らしい女が、
「ここへ置きましたよ」
勘定を置くや、これも外へ走り出て行ったのである
この女、密偵のおまさであった。。。
〔主な登場人物〕
長谷川平蔵(中村吉右衛門)
鯉肝のお里(野川由美子)
長虫の松五郎(垂水悟郎)
岩吉(安藤一夫)
大根や女房(石井富子)
新助(山内としお)
おまさ(梶芽衣子)
伊三次(三浦浩一)
大滝の五郎蔵(綿引勝彦)
久栄(多岐川裕美)
佐嶋忠介(高橋悦史)
沢田小平次(真田健一郎)
徳次郎(島英臣)
〔盗賊〕
・〔白根の三右衛門〕:常陸から野州・上州へかけて跳梁を重ねている盗賊。鯉肝のお里の頭
〔商家〕
・奈良屋:神田明神前の呉服屋。大根やの女房の息子が働いていた
・真綿屋:新右衛門町にある奈良屋の得意先。ここの女房が大根やのせがれにちょっかいを出した
・〔伊勢屋直次郎〕方:駿府の仏具問屋。二十七年ほど前、舟形の宗平が初鹿野の音松のところにいたときに、ながれ盗めの長虫の松五郎が手伝いに来て、押し込んだ
・〔黒木屋三右衛門〕:水戸城下の旅籠。白根の三右衛門が主人としておさまっていた
〔料理帳・本〕
橋のたもとの、京橋川を背にして、
〔のっぺい汁・いちぜんめし〕
の掛行灯が見えた
ここは、〔大根や〕という飯屋だ。土地の者で知らぬものはない
自慢の〔のっぺい汁〕がうまいし、酒も出す
近辺の商家の店員たちが、店じまいをしてから空腹をみたしたり、大名屋敷の仲間どもが酒をのみに来たりする
こうした深夜営業の店が、当時の江戸の町には諸方にあった
二人は、太鼓橋の傍の鰻屋へ入って、旧交をあたためた
宗平は老いて、盗人宿の番人
松五郎は足を洗って煙管師
それなのに、こだわりもなく酒をくみかわし、鰻に舌つづみをうって語り合い、飽くことを知らなかった
鯉の肝というからには・・・・・・
鯉を料理するとき、うっかり青肝・苦肝などとよばれる胆嚢をつぶしてしまうと、苦味と臭味を消し去るのが容易でない
その鯉肝を異名にもったお里という女賊は、相当なしたたかものといってよい
〔料理帳・ドラマ〕
のっぺい汁、お里と岩吉、大根やで
「のっぺって言うんだ、これ、おれの田舎では」
「そうか越後の生まれかえ、お前さん」
「おふくろがよく食わせてくれた、里芋たんと入れて」
鰻の蒲焼き、松五郎と五郎蔵
〔ドラマでのアレンジ〕
原作では松五郎の向かいの家におまさと大滝の五郎蔵が夫婦ものとして入居し、張り込むのだが、それが元で大事になる。ドラマでおまさと一緒に張り込むのは相模の彦十。これでは間違いが起こりようがない
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