おしま金三郎〔おしまきんざぶろう〕
初出掲載誌 『オール讀物』 昭和五十四年八月号
文春文庫 『鬼平犯科帳(ニ十)』
TV 第三シーズン63話『おしま金三郎』(92年4月15日放送)
脚本:井手雅人
監督:小野田嘉幹
〔本のおはなし〕
「・・・・・・そりゃあ、私も、二度と旦那の顔を見るつもりはなかったのだけれども、おもいきって、此処へやって来たのは、それだけのわけがあるんですよ」
「聞きたくねえ。何もいうな」
「でも、あの・・・・・・」
「帰れ」
低いが、断固とした口調で、男が女にいった
男は三十をこえていよう。小柄な細身の躰に盲縞の筒袖をきっぱりと着て、せまい板場の中で酒の燗をしながら、女に見向きもせぬ
色白の、双眸が黒々としてい、鼻すじの通った男前がこんなところの居酒屋の亭主ともおもえぬ
「帰れ」
恨めしげに、こちらを見つめている女へ、男がもう一度いった
「帰ってもいいのかえ」
女が、挑みかかるように、いい返した
女は二十七、八であろうか、
身なりも小ざっぱりとしているし、髪のかたちを見ても、どこかの町女房としかおもえない
色の浅ぐろい、下ぶくれの顔だちだが、躰つきはすっきりとしていて、左の顎のあたりに小豆粒ほどの黒子がある
「おしま。お前、何をいいたいのだ?」
「別に、いいたかありませんよ」
「何・・・・・・」
女・・・・・・おしまは、ためいきを吐き、
「これが以前は、たがいに汗をまじえて抱き合った、男と女なのかねえ」
「だまれ」
「ふん・・・・・・」
裏口から板場へ入って来たおしまは、板場の横手の小部屋の框(かまち)に腰をかけていたが、このとき、すっと立ち、
「何を、睨んでいなさるのさ、帰りますよ、帰るよ。いいのかえ?」
「くどくどと念を押すにはおよばねえ」
おしまは裏の戸を引き開け、生あたたかい夜の闇の中へ出て行きながら、
「小柳安五郎が殺されても、いいのかえ?」
と、いい、戸を閉めた
居酒屋の亭主が、愕然となり、おもわず腰を浮かした
女の足音が、ゆっくりと遠去かって行く
ついに、たまりかねた亭主が外へ飛び出し、
「おしま、待て」
呼びかけ、女を追って行った
亭主は、以前、火付盗賊改方の同心をつとめていた松波金三郎であった
その日の昼すぎに、非番の小柳安五郎は例によって左内坂の坪井道場で稽古をすませてから役宅へ帰り、着替えをして浅草の竜源寺へ向かった
墓詣でをすませた小柳が、竜源寺を出たのは八ツ(午後二時)ごろであったろう
寺の門を出た小柳が、
「あ・・・・・・」
おもわず、瞠目した
「久しいな、小柳」
門の外で、小柳があらわれるのを待っていた男は、あの〔豆腐酒屋〕の亭主である
いや、以前は小柳の同僚だった松波金三郎である
「松波か・・・・・・」
「先刻、御役宅で尋いたら、ここだというので、な・・・・・・」
松波金三郎は、ありふれた町人姿だが、小柳と肩をならべて歩み出したとき、手にした菅笠をかぶったものだから、小柳が、
「顔を隠すことはあるまい。おぬしの始末はついているのだ」
「そのことじゃあない」
「え・・・・・・?」
「おれが、お前さんと一緒にいるところを、もしも見られたらまずいことになる」
「かまわぬ、おぬしの始末はついて・・・・・・」
「牛尾の又平に、実の弟がいたのだ」
「牛尾・・・・・・ずいぶん、古いはなしではないか」
「牛尾一味を召し捕ったのは、お前さんとおれの手柄だが、そのかわりにおれは御役御免となってしまった・・・・・・」
「・・・・・・・」
「ま、そんなことはどうでもいいが、あのとき、牛尾一味のうちの二人を取り逃がしていた。おぼえているかえ」
「おぼえている」
小柳と松波は低い声でささやきかわしつつ、ゆっくりと歩を運んだ
「逃した一人は、牛尾の又平の右腕といわれた高山の治兵衛。もう一人は、女賊のおしま・・・・・・」
呻くように、そういった松波金三郎へ小柳が、
「いうな。もう、すんだことだ」
「いや、そのおしまが、おれに知らせに来たのだ。牛尾の又平の弟で、上方から中国筋で盗みばたらきをしている瀬田の虎蔵というのが、いよいよ江戸へ出て来て、打ち首になった兄の敵を討とうという・・・・・・」
「その敵が、おれだというのか?」
小柳安五郎は、いささかも動じなかった
上野山下へ出た二人は、小柳が行きつけの蕎麦屋・山城屋の二階座敷へあがって行った
その後から山城屋へ入って来て、階下の入れ込みの片隅へあがりこみ、酒を注文した客があった
五十がらみの小肥りの躰を地味な着物に包み、きちんと坐ったまま、ゆっくりと盃を口へ運び、店の小女へもおだやかな口のききようをする。羽織もつけているし、どこぞの小さな商家のあるじのようにも見える
両眼は眸が見えぬほど細く、それがいかにもやさしげな印象をあたえた
この男が、かつて、牛尾の治兵衛の右腕といわれた高山の治兵衛であった
翌朝になって・・・・・・
同心・小柳安五郎の市中見廻りがはじまった
袴をつけてはいるが浪人の風体で、編笠をかぶった小柳安五郎は、担当の上野山下から、谷中・本郷へかけての見廻りに出た
同じ日の午後も遅くなってから、長谷川平蔵は単身、例の着ながしの浪人姿で役宅を出て行った
その日の夕暮れどきに、麻布・田島町の〔豆腐酒屋〕へ、中年の物堅そうな町人がやって来て、亭主の松波金三郎に、
「おしまさんが、ぜひとも旦那に、お目にかかりたいのだそうで、ちょいと、お運びを願えませんでしょうか」
と、いう
「おしまが此処へ来られないのか?」
「はい、何でも小柳安五郎とかいうお人のことだと、旦那につたえてくれればわかる。そう申しました」
「小柳の・・・・・・」
ここに至って松波は、こころを決めた
先夜、おしまがあらわれて告げたことを疑っているわけではないが、それにしても、
(腑に落ちぬ・・・・・・)
このことであった
〔主な登場人物〕
長谷川平蔵(中村吉右衛門)
松波金三郎(峰岸徹)
おしま(蜷川有紀)
ませの七兵衛(不破万作)
高山の治兵衛(広瀬義宣)
沢田小平次(真田健一郎)
佐嶋忠介(高橋悦史)
茂吉(柳川清)
牛尾の又平(玉生司朗)
おちよ(海部八千代)
〔盗賊〕
・日影の長右衛門:兇盗。同心・小柳安五郎は長右衛門一味捕縛のため役宅に詰めっ切りになり、難産による妻子の死に目に逢うことができなかった
・牛尾の又平:罷免された元同心・松波金三郎と小柳安五郎により捕縛
・高山の治兵衛:牛尾の又平の右腕
・おしま:牛尾の又平配下の女賊。同心・松波金三郎を恋するあまりに、小柳と松波を危機に陥れる
・瀬田の虎蔵:牛尾の又平の弟。上方から中国筋で盗みばたらきをしている。まだ一度も、江戸で盗みをはたらいたことがない虎蔵だが、その悪名は盗賊改方へもきこえている
・松造:高山の治兵衛一味の配下。松波を百姓家へ案内した
〔商家〕
・山城屋:上野山下の蕎麦屋。小柳安五郎の行きつけ
・河内屋六兵衛方:大伝馬町の提灯問屋。押し込みの当夜に、河内屋の周辺をかためた盗賊改方によって、牛尾一味の十八名が捕らえられた
・美濃屋:飯田町の小体な料理屋。小柳が松波から偽名の手紙をもらい密かに会ったときに、おしまのことを告白された
・丸屋:本郷一丁目の菓子舗。八千代饅頭が名物
・三州屋:下谷茅町二丁目の飯屋。剣客浪人・高橋勇次郎が二階に寄宿している
・〔豆腐酒屋〕:麻布・田島町の居酒屋。松波金三郎が亭主
・玉章堂・松屋新八方:南鍋町二丁目にあり、役宅で使用する筆紙その他の文房具を納めてい、本店は京都にある。番頭の吉兵衛が松波とおしまの消息を告げる
〔料理帳・本〕
この居酒屋には店の名もついていないが、客は、
「豆腐酒屋」
などと、いっているようだ。
それというのも、肴は豆腐一品のみだからである。
亭主につきそっている六十がらみの老爺(おやじ)が豆腐を煎ったり餡かけにしたり、夏は井戸水に冷やして摺り生姜をのせて出したりする
結果は、
「やはり、墓詣りだったよ。その帰りに、上野山下で蕎麦を手繰っただけさ」
とのことだ
店の入れ込みへ坐った長谷川平蔵へ、松波は恐る恐る、豆腐と酒を出したものだ。
これを見て、にやりと盃を手にした平蔵へ松波が酌をした。
徳利を持つ松波の手がふるえ、盃が音をたてた
〔料理帳・ドラマ〕
大根の煮付け、金三郎の店にて
酒と肴、平蔵、沢田、金三郎の店にて
平蔵「おめえがいまだに独り身だったとは、俺の見込み違いだ。おしまとか言ったなぁ、あの女と一緒とばかり思っていた。何度抱いた。おしまと情を通じたのは幾度かと聞いているんだ」
金三郎「六度でございました。池の端の出合い茶屋にて」
平蔵「なるほど、その間に女がのぼせあがったという理由か」
〔ドラマでのアレンジ〕
おしまが治兵衛一味に捕らえられ、拷問の末、地下牢で裸体をさらしているのを、金三郎が己の着物を脱いで隠してやるのはドラマオリジナル。金三郎の子飼いの密偵は与吉であるが、ドラマではませの七兵衛となっている。原作では小柳安五郎がことの起こりになっているが、ドラマでは登場しない。
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