炎の色〔ほのおのいろ〕
初出掲載誌 『オール讀物』 昭和六十一年八月号 夜烏の声
昭和六十一年九月号 囮(おとり)
昭和六十一年十月号 荒神のお夏
昭和六十一年十一月号 おまさとお園
昭和六十一年十二月号 盗みの季節
昭和六十ニ年一月号 押し込みの夜
文春文庫 『鬼平犯科帳(ニ十三)』
TV 第三シーズン62話『炎の色』(92年4月1日放送)
脚本:田坂啓
監督:小野田嘉幹
〔本のおはなし〕
荒神のお夏の印象を、おまさは五郎蔵へ、つぎのように語っている
「眼が大きくて奇妙な女なんですよ。一目見たときには、何だかぞっとして・・・・・・」
お夏は、洗い髪を後ろへ垂らし、その先を白縮緬で包んでいた
紺一色の単衣に、これも白の細い帯を、何十年か前の享保の時代(ころ)の女がしていた水木結びにしている
肌が浅黒く、躰は少女のように細く靭(しな)やかで、これが二十五になる女だとは到底おもえなかった
頭を下げたおまさが顔をあげると、前に立ったまま、こちらを見おろしているお夏の眼に、ぴたりと自分の眼が合った
黒い、大きな瞳が凝と、おまさの眼にそそがれている
その瞬間に、おまさの胸の内が何やら、じいんと痺れたようになったのだ
おまさが挨拶をしたのに対して、お夏は何の返事もあたえず、いつまでも見おろしているので、おまさは目を伏せてしまった。そのとき峰山の初蔵が、とりなし顔に、
「二代目。これがあの、おまさなので・・・・・・」
口をはさむのへ、うなずいて見せ、尚も、おまさを見おろしていたが、ややあって、
「気に入った」
と一言
はっと顔をあげたおまさへ、お夏がにっと笑って見せた
それが、何ともいいようがない無言の笑いで、おまさの背中が総毛立った
「二代目がお気に入って下すって、何よりだ」
「よかったな、おまさ」
半七や初蔵が口々にいうのへ、
「おまさは、もう帰していいよ」
こういって、お夏はさっと身を返し、奥へ入って行った
長谷川平蔵の予言は敵中した
その翌々日の昼下がりに、荒神のお夏が、お熊の茶店へあらわれたのである
梅雨へ入ったというのに、このところ三日ばかり雨が降らず、空は抜けるように晴れわたり、まるで秋のようにさわやかな風が吹きわたっている
お夏は、すっと茶店へ入って来て、お熊に、
「ここに、おまささんという人がおいででしょうか?」
まともな口調でいった
万事、心得たお熊が、
「おりますよ。さ、どうぞ、奥へお通りなさい」
「では、ごめんを・・・・・・」
ていねいに一礼して、お夏が奥へ入って来た
「ここの婆さんは徒者(ただもの)じゃあない。だが、盗めには関わり合いがないようだね」
お夏は一目で看破してしまった
「お頭が、おひとりでお見えになるなんて、おもってもみませんでございました」
「そうかえ」
と、おまさを見ていたお夏の両眼が、きらりと光った
「あ・・・・・・」
おまさの右手を、お夏が両手につかんだのである
つかんだ手を、ゆっくりと擦る
擦りながら、お夏はおまさを凝視している
おまさの躰が、かっと熱くなった。何故か、わからぬ
「ここは落ちついて、いいね。それはそうと、お腹が空いているのだ。何か食べさせておくれ」
「あ、これは気がつきませんで」
土間へ下りたおまさの後から、お夏も下りて来て、袂から出した紙を引き裂き、そこの竈の火を移した
紙がめらめらと燃えあがった
その炎の色を、お夏は、うっとりと見つめている
(妙なことをする?)
おまさがおもわず、見まもっていると、お夏が見返して、
「ふ、ふふ・・・・・・」
たのしげな、ふくみ笑いを洩らした
そして、燃えつきた紙を土間へ捨て、おまさに近寄り、
(あっ・・・・・・)
と、おもう間もなく、おまさの頬をちろりと舐めた
これにはぞっとしたが、決して嫌な感じではない
一刻後に、お夏は茶店を出て、何処かへ立ち去った
平蔵が居間へ引きあげたのは四ツ(午後十時)をすぎていた
それから入浴し、久栄が小台所へ出てつくった夜食の膳に向かったとき、突然、放火の知らせが役宅へ入った
場所は、江戸四宿のうちの千住宿であった
放火にもいろいろあるけれども、その火事騒ぎのどさくさまぎれに盗みをするやつどもが、近年はことに多くなった
一軒の火事だけではすまない
風向きのしだいによっては大火となって、損害、犠牲は量り知れぬものとなる
こうしたわけで、長谷川平蔵は放火を重く視たし、その場合は必ず、火付盗賊改方へ急報されることになっている
「すぐさま、手配いたせ」
と、平蔵は当直の与力・秋元惣右衛門に同心二名、小者五名をつけ、千住へ急行せしめた
放火があったのは大千住の橋戸町にある八百屋・文次郎方で、裏手の、まるで火の気のないところから炎があがった
さいわい、通りかかった火の番が見つけたので、すぐに消しとめることができたが、その最中(さなか)に、今度は千住五丁目の旅籠・藤井半六方の裏手から火の手があがった
人びとが駆けつけたが、このほうは火のまわりが早く、両どなりの蕎麦屋と荒物屋が類焼した
あきらかに、これは放火と見てよい
平蔵は、もう寝間へ入らず、
「佐嶋忠介をよべ」
緊迫した声でいいつけた
佐嶋が役宅へ到着したのは八ツ(午前二時)ごろであったが、門内に篝火が焚かれ、玄関の扉は開かれ、当直の同心たちが出たり入ったりしている
佐嶋が居間の前の廊下へ来て、
「佐嶋忠介、ただいま到着をいたしました」
声をかけると、
「入れ」
控えの間へ入った佐嶋与力は、向うの居間に坐った長谷川平蔵が、妙なことをしているのに気づいた
平蔵が紙を細く引き裂いては、これを火鉢に焼(く)べ、めらめらと燃えあがる炎を凝と見つめているではないか
「お・・・・・・佐嶋、これへまいれ」
居間へ入った佐嶋に、
「もそっと、近くまいれ」
近寄る佐嶋へ、平蔵が一気にいった
「佐嶋、荒神・峰山の野田屋押し込みは明日かとおもう」
〔主な登場人物〕
長谷川平蔵(中村吉右衛門)
荒神のお夏(池内淳子)
おまさ(梶芽衣子)
峰山の初蔵(新田昌玄)
袖巻の半七(花上晃)
神谷勝平(立花一男)
大滝の五郎蔵(綿引勝彦)
相模の彦十(江戸家猫八)
伊三次(三浦浩一)
おとき(江戸家まねき猫)
佐嶋忠介(高橋悦史)
平山清三郎(草見潤平)
牛子の久八(出水憲司)
〔盗賊〕
・峰山の初蔵:盗賊の頭。おまさがむかし二度ほど盗みばたらきを手つだったことがある
・荒神の助太郎:荒神一味の先代の頭。十三年前に亡くなった。三ケ条の掟をまもりぬいたばかりではなく、ながれ盗めのおまさが気に入って、親切に面倒をみてくれた。死にのぞんだとき、有金の大半を配下の盗賊たちにあたえ、一味を解散した
・袖巻の半七:荒神一味の盗賊。古顔ながら、二代目になろうとするお夏にまだ会ったことがない
・夜烏の仙之助:荒神一味の盗賊。名古屋の役者あがり、肌の色が白く、眉毛の薄い男で、唇の色が肌の色と同じように白く、唇がどこにあるかわからないというので、荒神一味の者のなかには「口なしの仙之助」と陰でよんだりしていた。尾張・名古屋の大きな盗めをひかえ、おまさと仙之助が組み、連絡の役に入っていた時に、いきなりおまさを犯した
・前沢の儀十:大滝の五郎蔵の父親。峰山の初蔵がおまさを借りに大滝の五郎蔵を訪れた際に同席する。実は狐火の勇五郎をまねて長谷川平蔵が扮したもの
・牛子の久八:峰山一味の盗賊。おまさを宮城村の隠れ家まで案内する
・三河(そうご)の定右衛門:上方の盗賊の頭。このお頭のもとで、荒神のお夏が盗賊の道の修行を積んだ
天徳寺の茂平:むかしから初蔵の盗みばたらきをたすけてきて、盗賊仲間では「峰山の片腕」などと、よばれている
〔商家〕
・〔立花〕:雑司が谷の鬼子母神・境内の茶店。数年前の〔隠居金七百両〕事件で、老盗賊・堀切の次郎助が経営していた。次郎助が殺害された後に、近くの百姓が買いとり営業していたが、これはうまく行かなくて潰れたのを、長谷川平蔵が内密に引き取った。店の主人に密偵・平磯の太平を入れて、盗賊改方の一つの基地にしている
・〔伊豆由〕:深川の入舟町にある船宿。峰山の初蔵が利用し、舟を出させたり、密談をしたりしている。主人は盗賊どもとは無関係らしい
・〔駕籠兼〕:鬼子母神近くの大きな駕籠屋。このあたりの茶店や茶屋の客を一手に引き受けている
・〔野田屋卯兵衛〕方:日本橋・箱崎町二丁目の醤油酢問屋。荒神と峰山一味がねらっている
・文生堂・中村孫太郎:本石町三丁目にある古書店。小体な店構えで、老夫婦に店員一人、女中一人ほどの世帯である。ここへ、同心・小柳安五郎が寄宿することになった
・層山堂:文生堂近くの大きな書物問屋
・〔三州屋〕:神田・鍋町北横丁にある口入れ屋
〔料理帳・本〕
朝は焙じ茶に梅干し三粒。昼に白粥と梅干し三粒。夜は梅干し三粒を肴に酒二合をゆっくりとのむ。これが平野屋源助の健康法なのだそうである。
源助は、すぐさま茂兵衛を居間へ呼び、佐嶋与力と綿密な打ち合わせをおこなった
当時の鬼子母神は豊島郡・野方領という現代からは想像を絶した田園地帯にあった。
境内は銀杏、杉、松、槇などの古木がそびえ、門前には藁屋根の茶店が軒をつらねている。
これらの茶店で売っている、芒の穂でつくった木菟の玩具や水飴、芋田楽は鬼子母神の名物である。
鬼子母神は、安産、求児、幼児保育の守護神で、四季を問わず、参詣の人が絶えぬ
町人姿の木村忠吾は、茶店の若い者になりきって、芋田楽やら饅頭やらを運んだり、女中のお園に、
「ちょっと忠さん。このお茶を持って行っとくれ」
なぞと、やられている
お園が、葱をまぜた炒り卵を昆布の佃煮、茄子の塩もみで簡単な昼餉の膳を運んで来て、
「殿様、一本おつけいたしましょうか?」
「いや、酒はよい。これは、お前がこしらえたのか?」
「はい」
「なかなか、手ぎわがよいな」
「まあ・・・・・・」
いかにもうれしげに、お園は笑った
お夏のみか、峰山一味の者が茶店へあらわれたとき、お園は山盛りの饅頭を盆に乗せ、客に、
「ちょっとたのみますよ、これを弥勒寺さんの坊さんへ届けて来るからね」
いい置いて、方丈へおもむき、黙って盆を差し出す
お夏は、この日、茶店からも近い南六間堀町の菓子舗・布袋屋の銘菓〔茶巾餅〕を手みやげに、
「これを、お婆さんにやっておくれ」
一分を紙に包んで、おまさへわたした。
「今日は、あまり、ゆっくりしていられないのだ」
「お腹のぐあいは、いかがでございますか?」
「ふ、ふふ・・・・・・この前に来たとき、お前がこしらえてくれた紫蘇飯は旨かったよ」
ささやくようにいって、お夏が、おまさの頬を人さし指で軽く突いた
「事情(わけ)は、いま、おはなしをいたしますが、その前に、御菓子をおあがりなさいまし、この近くの布袋屋の羽二重餅で、なかなか旨うございますよ」
お園は実に、落ちつきはらっていた
〔料理帳・ドラマ〕
分葱と木くらげの白味噌和え、芹の味噌椀、味醂漬けした鱒の焼き物
猫殿、雑司が谷の料理屋・立花にて
猫殿「こんな田舎だからな、あまり凝った料理でないほうがよい。素朴だが念を入れ、心のこもった料理がよく似合うというもんだ。分葱と木くらげの白味噌和えに、芹の味噌椀、味醂漬けした鱒の焼き物に、ちょいと嫁菜を添える」
山田市太郎「客と言っても盗賊の頭ですよ、村松さん」
猫殿「ん~、我ながらよく出来た」
〔ドラマでのアレンジ〕
ドラマではお園と夜烏の仙之助は登場しない。荒神のお夏にはおまさと同じくらいの年の自殺した妹がいて、おまさへの姉妹愛として描かれている。また、後半は『誘拐』を下敷きにしているが、原作が未完のため、結末はドラマオリジナル。