〔隠居金〕というのは、盗賊の首領が引退にそなえて貯めておく金のことである
そもそも、一流の盗賊のお頭というものは〔隠居金〕をためこむものではない。引退のための金は、最後の〔お盗め〕によって得なくてはならないのだが、そこはそれ、盗賊とても人間である。それに長生きをすればするほど、最後のお盗めに自信がもてなくなる。だから機会あるたびに、ひっそりと余生を送るための金をたくわえておくのだ
しかし、そのことが配下の者どもに知れては、
「なんでえ、隠居金なぞをためこみゃあがって・・・・・・うちのお頭も汚ねえじゃあねえか」
ということになるし、信頼をうしなった子分たちが、お頭を殺害し、その隠居金をうばい取った例もある
隠居金七百両〔いんきょがねななひゃくりょう〕
初出掲載誌 『オール讀物』 昭和四十六年九月号
文春文庫 『鬼平犯科帳(七)』
TV 第三シーズン59話『隠居金七百両』(92年3月11日放送)
脚本:安倍徹郎
監督:小野田嘉幹
〔本のおはなし〕
「あんな、芋の煮ころがしのような小むすめの、どこがいったい、いいというんだろうな。まったくもってその、あきれ返ってものもいえないよ」
と、悪友・阿部弥太郎が遠慮会釈もなくいいたてるのだが、このところ長谷川辰蔵は、その〔芋むすめ〕に、もう夢中なのである
辰蔵いうまでもなく、火付盗賊改方の長官(おかしら)・長谷川平蔵宣以の長男で、この年、寛政四年の正月を迎えて二十歳となった
父・平蔵が火付盗賊改方に任じ、母・久栄と共に清水門外の役宅で暮らすようになってより、辰蔵は目白台の私邸で妹の清と留守をうけたまわっている
その辰蔵が、いま、熱を上げている〔小むすめ〕というのは、屋敷からも程近い雑司が谷の鬼子母神境内にある茶屋〔笹や〕にはたらいている小女で、名を〔お順〕という
一月も終ろうとする或日の午後。長谷川辰蔵は四日ぶりに鬼子母神へ出かけて行った
当時の一月末は、現代(いま)の二月下旬にあたる。冷え冷えと晴れわたった青空には、まだ、きびしい冬の名残りがひそみ残っていたけれども、辰蔵が踏んで行く地土の底からは、微かな春のにおいがただよいはじめてきていた
お順のいる茶屋〔笹や〕は、鬼子母神の参道〔一ノ鳥居〕の手前の右側にあった
朝からあたたかい日和ではあったが、なんといっても、一月のことだ。参詣の人もすくなかったし、軒をつらねている料理屋・茶店の中には戸を閉ざしているのもあった
(あ・・・・・・笹やも、今日は休みか・・・・・・)
中に、お順がいるやも知れぬが、主人の老爺(じじい)は六尺に近い大男で、店へ来ては何かとお順へはなしかける辰蔵をにらみつける。無愛想だし、あまり客もないのだ
(さてどうするか・・・・・・そうだ、よし、たまさかには役宅へ出向いて、父上のごきげんをうかがい、胡麻をすっておこうか・・・・・・)
というので、そのまま道を南へすすむ。まわりは、まったくの田園といってよい
しばらく行くと、江戸川にかかる姿見橋へ出て、さらに南へのぼれば、かの赤穂義士の一人、堀部安兵衛の決闘で有名な高田の馬場へ出る。それから牛込へぬけ、江戸城の濠端へ向かうつもりの長谷川辰蔵が、姿見橋の手前左側の木立へ入った
放尿のためである
たまりにたまっていたものだから、ほとばしるように出た
「ああ、快なるかな、快なるかな」
つぶやきつつ辰蔵が、木陰から何気なく田舎道を見やると、姿見橋をわたって〔笹や〕のお順が、こちらへやって来るではないか
小柄ではあるが、胸も腰もみっしりと肉づいたお順の躰が質素な着物からはじけ出しそうに見える
いま、砂利場村の小道には、他に人影も見えぬ
(しめた。よいところで出合ったものだ)
辰蔵は長い小用を悠々と足しながら、近づいて来るお順を見ていたが、そのうちに
「あっ・・・・・・」
突如・・・・・・
南蔵院という寺の山門から躍り出た二人の男が、お順へ飛びかかり、当身をくらわせ、気をうしなって倒れかかるお順を担ぎ上げ、たちまちに姿見橋を向うへわたり、木立の中へ姿を隠してしまったのである
「あ・・・・・・ああっ・・・・・・」
と辰蔵。まだ出しきれていぬ小水をはね飛ばし、あわてて木立から道へ駈け出していた
すぐに追いかけたつもりなのだが、辰蔵は三人を見うしなってしまった
(こうなったら、先ず、笹やの老爺に知らせ、それから役人に・・・・・・そうだ、父にねがって見てもいい。お順が誘拐(かどわかし)にあったのは、たしかなのだからな)
それから辰蔵は、もと来た道を急いで引き返した
下雑司ケ谷の通りを駆けて突っ切り、坂道をのぼりかけた辰蔵が、ぎょっとして足をとめた
坂の上のほうを、あの男が歩いているのを見たのだ
三十がらみの町人ふうの男は、お順を引きさらって行った二人のうちの一人で、骨張った躰を包んでいる茶色の着物に、辰蔵は見おぼえがあった
陽が、かたむきはじめていた
男はかくべつに急ぐ足どりでもなく、ニ、三度うしろを振り向いたが、辰蔵を怪しむ様子はない。辰蔵ものんびりと歩を運んでいたし、鬼子母神が近くなるにつれて人家も増え、人の往来もある
(あいつが、鬼子母神へ・・・・・・すると、やはり、笹やへ行くつもりなのだろうか?)
男は〔笹や〕の前に立ち、戸をたたきはじめた
〔笹や〕の戸が内側からひらき、老爺の顔がちらと見えた
そのとき、外の男が何かいいかけ、するりと中へ入って戸をしめてしまった
(・・・・・・?)
傍へ寄ってみたが、〔笹や〕の内部からは、争う物音もきこえなかった
(よくは、わからぬが・・・・・・?)
これは、単純な誘拐のようにおもえなかった
〔笹や〕の戸が開き、男があらわれた。すぐに、戸が内側から閉ざされた。その閉ざされた表戸へ男はつばを吐きつけ、舌うちを鳴らすや、今度は急ぎ足で、来た道を引き返して行く
〔笹や〕のお順については辰蔵、いのちがけで惚れこんだ、というわけではない。土の香りと健康な若い女の肌に滲むうす汗の甘い匂いとにひかれ、お順のもつ野趣に〔遊びごころ〕をそそられた辰蔵であったが、こうなってみると、事件(こと)のはこびが、
(いかにも妙な・・・・・・)
だけに辰蔵は、ほうっておけぬ気もちになってきていた
そもそも、〔笹や〕の爺いが男を追って出て来ぬのも、ふしぎではある
下雑司ケ谷の通りへ出て、男が姿見橋の方向へ行くのを見とどけてから、辰蔵は、すぐ近くの阿部屋敷へ駆けこみ、顔なじみの門番に、
「弥太郎さんは、帰っていなさるか?」
と、叫んだ
「よし。急ぎの大事だ。おれは砂利場の道を姿見橋のほうへ行っているから、すぐに、大急ぎで後から来てくれとつたえてくれ、たのむぞ」
いうや、辰蔵は身を返して、ふたたび男の後を追いはじめた
阿部弥太郎は、すぐに追いかけて来てくれた
辰蔵は手早く、これまで目撃したことを語り、
「おれは、笹やの老爺のところへ行って、問いつめて見る。おぬし、あの男の後をつけて、お順の安否を・・・・・・」
「いいとも、小むすめをかどわかすなんざ、ふてえ野郎だ!!」
と、そこは血の気の多い阿部弥太郎が、南蔵院の門前を行きすぎる男の後をつけて行く。夕暮れが近くなって、家路をたどる通行の人もちらほらと見えるのが、尾行にはさいわいであった
「たのむぞ」
と、辰蔵は身をひるがえして、鬼子母神参道へ駆けもどって行った
淡く、夕闇がたちこめ、にわかに大気も冷えてきたが、辰蔵の全身は火をつけられたようになり、びっしょりと汗をかいていた
〔笹や〕の老爺は、名を次郎助という。当年五十八歳
次郎助は、
〔白峰の太四郎〕
という大盗賊の配下であったが、四年前、病気のために白峰一味と盗みばたらきをすることがむずかしくなった
そこで、お頭の太四郎が手配をしてくれ、鬼子母神・参道の茶屋〔笹や〕の権利を買い、これを次郎助にあたえたのである
次郎助は、昨夜から腹が痛みはじめた
はじめはそれほどでもなかったが、今日の明け方になって、激痛に浅いねむりをさまされてからというもの、痛みがつのるばかりとなったものだから、ついに、たまりかねて、お順に、
「今日は、店を休もう」
といい、薬を買いに行かせた
お順が出て行ってから、腹の痛みはいよいよ激しくなり、たまりかねて次郎助は寝床へもぐりこんだ。寝てもいられないほどに痛む。痛みがやわらいで、また痛みはじめる。その間隔がしだいに狭まってきた
(おそい。どうしたのだ、お順は・・・・・・)
いても立ってもいられなくなったとき、表戸をたたく音がした。お順ならば裏口から入って来るはずである
次郎助は苦痛をこらえて起きあがり、よろめきつつ戸を開けて見て、
「あっ・・・・・・」
おどろいた
外に立っていた男は、むかし、白峰の太四郎お頭の下で次郎助と共にはたらいていた〔奈良山の与市〕という盗賊だったからである。。。
〔主な登場人物〕
長谷川平蔵(中村吉右衛門)
堀切の次郎助(芦屋雁之助)
お順(浅野愛子)
酒井祐介(勝野洋)
久栄(多岐川裕美)
長谷川辰蔵(長尾豪二郎)
阿部弥太郎(坂詰貴之)
奈良山の与市(小野武彦)
松浦与助(小島三児)
薬師の半平(中田浩二)
孫吉(多賀勝)
〔盗賊〕
・〔奈良山の与市〕:白峰の太四郎の下で次郎助と共に働いていた盗賊。凶暴な性格で、押しこみ先で人を傷つけたりするものだから、太四郎に体よく追い出された
・生駒の仙右衛門:大阪の盗賊。仙右衛門の口ききで白峰の太四郎が奈良山の与市を引き取った
・有馬の久造:太四郎が三代目をゆずるつもりの盗賊
・〔薬師の半平〕:白峰の太四郎一味の中年の盗賊。太四郎の隠居金を、旅商人に化けて背に負い、たった一人で次郎助の茶店に届けて来た
・〔井尻の直七〕:淀の勘兵衛の手下。大滝の五郎蔵が両国の盛り場で見かけた。盗賊だったころの五郎蔵とは顔見知りの間柄
・〔淀の勘兵衛〕:大阪から上方にかけてむかしから名のきこえた盗賊。二十年も前から京阪から中国すじにかけて盗みをはたらいていたことが、京都町奉行を務めた平蔵の亡父・長谷川宣雄の日記〔京師日乗〕にあった
〔孫吉〕:奈良山の与市の弟分
〔商家〕
・〔かめや〕:東海道・関の宿場にあった饂飩屋。亭主・利兵衛は〔ひとりばたらき〕の盗賊だったが引退し、三十も年下の女房をもらい、一昨年の夏、八十五歳の長寿をたもち畳の上で大往生した。利兵衛は次郎助のお頭・白峰の太四郎の仕事を何度か手伝ったことがあり、次郎助が上方での大仕事を終え、〔かめや〕に隠れていたことがある。その時、次郎助がうどん屋の小女・おきんに手をつけてしまい、生まれたのがお順である。今は利兵衛の女房のおしかが息子と共に饂飩屋をやっている
・〔京屋清左衛門〕:戸塚の高田の馬場にも近い穴八幡神社の北側にある放生寺の門前町にある薬種屋。このあたりで評判もよく、次郎助もこれまでに、何度も京屋の薬で風邪を癒したりしていたので、お順に腹痛の薬を買いに行かせた
・〔近江や〕:京の南禅寺・門前の茶店。奈良山の与市の妹・おせいが茶汲女をしていた。与市は自分の妹であることを知らせず、白峰の太四郎に妾としておせいを取り持った
・〔ひたちや〕:次郎助の死後、近くの百姓が〔笹や〕を買い取り、店の名をあらためて営業をはじめた
〔料理帳・本〕
辰蔵は小走りに、参道にある〔あやめ屋〕という茶店へ入り、
「早く、早く」
急きたてながら、菅笠と焼きだんごを買い、袴と大刀をぬぎすてて、いくらかの〔こころづけ〕を亭主へわたし、
「袴と刀を、ちょっと、あずかっておいてくれ」
笠をかぶり、焼だんごを頬張りながら走り出した
こうしたところは、なかなかどうして堂に入ったものだ
〔料理帳・ドラマ〕
山椒味噌味の団子、辰蔵、笹やにて
辰蔵「この山椒味噌の団子がなかなかのものだ。一度喰うとやみつきになる」
弥太郎「とかなんとか。団子も女も所詮は田舎の味だ。どこがいいんだ、こんなもん」
〔ドラマでのアレンジ〕
原作では次郎助は与市に殺されるのではなく、腸捻転で死亡する。また、原作では隠居金のありかは平蔵が次郎助の立場に立って熟考して突き止める
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