火つけ船頭〔ひつけせんどう〕
初出掲載誌 『オール讀物』 昭和五十ニ年五月号
文春文庫 『鬼平犯科帳(十六)』
TV 第三シーズン51話『火つけ船頭』(91年12月18日放送)
脚本:安藤日出男
監督:井上昭
〔本のおはなし〕
冷え切った夜の闇が張りつめ、常吉の吐く息が白かった
(今夜は、ばかに冷え込みゃあがる。ああ、畜生。もう直きに冬なんだなあ・・・・・・)
月の無い夜半であった
常吉を乗せた小舟は、楓川の暗い川面をすべり、越中橋の下を潜って、右側の河岸へ着いた
舟からあがり、材木置場へ屈み込んだ常吉は頬かぶりをして、腰へ吊している太目の竹筒に触ってみた
竹筒の中には、たっぷりと灯油がつめこまれている
常吉は、火打石で火縄に火を点じ、これを左掌で囲うようにしながら、材木置場から河岸道へ出た
四ツ半(午後十一時)を、まわっていたろう
これから自分がすることをおもうと、常吉は全身が熱くなってきた
来年は三十になる常吉は、船頭であった
日本橋の北詰を東へ行き、小網町の河岸道へ出ると、日本橋川からの入り堀に架かる思案橋のたもとに〔加賀や〕という船宿がある
常吉は、そこの通い船頭で、深川・黒江町の裏店に、一昨年の春、いっしょになった女房のおときと住んでいる。まだ、子がなかった
(さて・・・・・・どこに、してやろうかな・・・・・・)
足音もなく、南鞘町と南塗師町の間の道を歩みながら、常吉は、あたりの気配に神経をくばっていた
今夜で、常吉は三度目の放火をすることになる
南伝馬町の大通りへ出る、一つ手前の細道を、常吉は右へ切れ込んだ
そこは畳表問屋・近江屋六兵衛方の裏手にあたる
(よし、ここにしよう)
と、近江屋の裏塀の裾へ屈み込んだ常吉、腰の竹筒を外した。中の灯油を撒き散らして火をつけるのだ
近江屋の裏塀の端に、裏手の出入口がある
そこへ、そこの潜戸のあたりへ、黒い影が二つ、三つとあらわれたのを常吉は見た
(な、なんだ、あれは・・・・・・?)
あわてて火縄の火を揉み消し、常吉は身を伏せた
黒い影の一つが潜戸を軽く叩いたかとおもうと、戸が内側から音もなく開いたではないか・・・・・・
(こ、こりゃあ大変だ。あいつら、盗人だ・・・・・・)
近江屋の裏口へ吸い込まれて行った黒い影は十五、六もあったろう
(ち、畜生め。とんでもねえまねをしやあがる・・・・・・)
自分(おのれ)が、とんでもないことをやりかけたことも忘れた常吉の胸に、激しい怒りがこみあげてきた
(ええ、畜生どもめ。どうしてくれようか、どうして・・・・・・)
身を伏せたままの常吉は、とっさに判断がつきかねた
この夏のはじめに・・・・・・
はじめて、室町の乾物問屋・伊勢屋へ放火したとき、常吉の心情が、きわめて不安定な状態にあったことはたしかだ
そのころ、常吉は、女房おときの浮気を知った。いや、その現場を、わが目に見た
自分の長屋の戸を開けて見て、常吉は立ちすくんだ
裸の男が、おときを組み敷いてい、おときの白い両腕が男のくびを巻きしめているではないか
男は、同じ長屋に独り暮しをしている西村虎次郎という三十がらみの浪人で、顔に二カ所も切傷の痕がある。何か、よくないことをたくらんでは飯の種にしているらしい
西村虎次郎は、そのとき、がたがたとふるえている常吉を見てから、ゆっくりとおときの躰をはなれ、悠然と身仕度をして、
「おい、常。文句があるならいつでも来い」
凄味のある低い声でいってから、外へ去った
翌朝になると、おときはけろりとして常吉の朝餉の仕度にかかったのだが、それですんだわけではない
いまのおときは、常吉を見くびってしまい、
「お前さんが出て行けというなら、いつでも出て行くよ。そのかわりね、西村がお前さんに何をするか知れないよ。その覚悟はついているのかえ」
むしろ、脅しにかかる始末なのだ
はじめてのとき、家へ帰るのもおもしろくなくて、加賀やに住み込んでいる老船頭の友五郎と酒をのみ合い、はじめは泊まり込むつもりだったが、
(いまごろ、おときのやつ、何をしているか知れたものじゃあねえ)
そうおもうと、居ても立ってもいられなくなり、ふらふらと外へ出た
どこをどう歩いたのか、わからぬうち、伊勢屋の横道へ出た
それと知った途端に、加賀やの客でもある伊勢屋又七の威張った顔をおもい出した
(畜生め・・・・・・)
むらむらとなった常吉は、提灯の火だけで、伊勢屋の裏口へ放火をしたのだが、火をつけて逃げて、はなれたところから見ていると、伊勢屋のあたりの空へ火の粉が吹きあがった。近くの普請場から鉋屑をあつめてきて火をつけたのがよかったものか、おもいのほかの火事となった
(ざまあ、見やがれ・・・・・・)
胸につかえていた、大きな鉛の塊りのようなものがすっと消えて、全身に衝つきあがってくる快い興奮は、これまでに常吉が経験をしたことのないものであった
その興奮を、今夜も味わうつもりでやって来たのに、
(と、とんでもねえことに・・・・・・)
なってしまった
見張りの盗賊の目がとどかぬ場所まで後退した常吉は、身を起し、近江屋の裏塀に竹筒の灯油を撒き散らし、火縄へ点け直しておいた火を紙片へ移して、灯油に濡れた塀へ火つけした。小さな焔が、たちまちにめらめらと塀を駆けのぼりはじめた
そこまで見とどけた常吉は、身をひるがえして走り出した
常吉は、近江屋の外塀へ火をつけてから逃げ、材木河岸まで来ると、材木置場の、その材木を積みあげた上へのぼって、近江屋の方をしばらくながめていた
火の粉も、すこしは黒い空へあがって、
(胸が、すっとした・・・・・・)
のであるが、そのときに材木置場へ数人の男たちが駆け込んで来たのだ
黒い影は八つだ
ひそひそとささやき合いつつ、彼らが暗闇の中で、何やらごそごそとうごいているのを、材木の上に身を伏せた常吉は、息を殺して見下(おろ)していた
すると、その中の一人が、別の一人へ、
「先生も、いっしょにお乗んなせえ、途中、危なくねえところで陸(おか)へあがんなせえよ」
こういうと、
「では、そうしてもらおうか」
こたえた。その男の声に、常吉は愕然となった
まぎれもない、女房おときを、
(盗み抱きにしやあがった・・・・・・)
浪人・西村虎次郎の声ではないか・・・・・・
西村浪人をふくめて、八つの黒い影は、材木置場の闇に消えた
常吉は、しばらくの間、身を起すこともできなかった。。。
〔主な登場人物〕
長谷川平蔵(中村吉右衛門)
常吉(下條アトム)
おさき(竹井みどり)
西村虎次郎(伊藤敏八)
佐嶋忠介(高橋悦史)
久栄(多岐川裕美)
相模の彦十(江戸家猫八)
久助(北見治一)
およし(中條郷子)
島造(松本幸三)
関本の源七(徳田興人)
〔盗賊〕
・塚原の元右衛門:口合人。〔口合人〕とは、一人ばたらきの盗賊を諸方の〔お頭〕へ周旋し、周旋料をもらう
・関本の源七:南伝馬町の近江屋へ押し込んだ盗賊
〔商家〕
・伊勢屋又七方:日本橋・室町一丁目の乾物問屋。常吉が最初に放火した。伊勢屋は丸焼けになり、となり近所が五軒も類焼し、三人の焼死者が出た。
・尾張屋源蔵方:浅草の御蔵前片町の足袋股引問屋。常吉二度目の放火。逸早く奉公人が発見したので、小火(ぼや)にとどまった
・近江屋六兵衛方:南伝馬町一丁目の畳表問屋
・〔伊豆半〕:浅草の山谷掘の料理屋。常吉が客を送った先
・〔ひしや〕:茂森町の崎川橋の南詰の船宿。西村虎次郎がおときと逢引に利用
・〔増半〕:平野町の河岸にある〔どぜう鍋や〕。西村虎次郎が入る
・〔巴屋久兵衛〕方:富岡八幡宮・正面の広場の西側の角にある料理茶屋。上総屋伊之助が業者の寄り合いで利用
・上総屋伊之助:熊井町に店を構える水油仲買業。手代の松太郎ともども西村虎次郎に襲われかけた
・〔吉田屋源七〕:武州・草加宿の旅籠。主人の源七が盗賊の首領
・豊島屋利兵衛方:小舟町一丁目の明樽問屋。常吉が火付けしようとしたところを、盗賊改方の同心・小柳安五郎に取り押さえられる
〔料理帳・本〕
平蔵が入浴を終えて出て来ると、久栄が酒の肴の仕度をととのえ、侍女に運ばせ、居間にあらわれた
「鴨じゃな」
「はい」
鴨の肉を、醤油と酒を合わせたつけ汁へ漬けておき、これを網焼きにしては出すのは、久栄が得意のものだ。つけ汁に久栄の工夫があるらしい。今夜は、みずから台所へ出て行ったのであろう
それと、鴨の脂身を細く細く切って、千住葱と合せて熱い吸物が、先ず出た
「久栄。わしに、このような精をつけさせて何とするぞ?」
「まあ・・・・・・」
久栄は顔を赤らめた
四百石の旗本の、通常の暮らしならば、とてもこのような冗談を、配下の者の前でいうこともあるまいが、そこは火盗改方の役宅の気楽さであった
いちいち体裁にかまっていては、物事がはかどらぬ御役目なのである
「おいしゅうございますなあ」
吸物の湯気で鼻先を濡らしていた佐嶋忠介が、目を細めて、おもわずいった
八幡宮・門前には、日暮れから翌朝まで、葭簀張りの田楽やが四つほど店を出す
これを土地(ところ)の人びとは、
「石焼田楽」
と、よんでいる
大きな石を火で熱し、この上で豆腐だの芋だの、およそ、味噌を塗って火に焙ってうまいものなら何でも田楽にして、客に出す。むろん、酒はいくらでも出す
〔料理帳・ドラマ〕
鴨の網焼き、平蔵と佐嶋忠介、役宅にて
平蔵「この網焼きはなぁ、酒と醤油を合わせたつけ汁に浸して焼くんだが、このつけ汁に久栄の工夫があるそうだ」
忠介「奥方様、ひとつそのコツをお教え願えますか」
久栄「たとえ佐嶋殿でも、これは申し上げられませぬ。つけ汁の隠し味は、私一人の秘伝でございまする」
夕餉、常吉とおさき、長屋にて
〔ドラマでのアレンジ〕
原作では常吉は『大川の隠居』に出ていた浜崎の友五郎の船頭仲間という設定である。口合人の塚原の元右衛門はドラマには登場しない。原作のおときはドラマではおさきになっている。常吉の処罰が原作とドラマでは異なる。
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