平蔵が若いころには、このように素人女の世話を路上でもちかける、などということはなかった
世話をした女から、どれほどの割前を取るのか知らぬが、いま、これを稼業としている者を「阿呆烏」と隠語でよぶそうな
二つの顔〔ふたつのかお〕
初出掲載誌 『オール讀物』 昭和四十九年十月号
文春文庫 『鬼平犯科帳(十ニ)』
TV 第三シーズン61話『二つの顔』(92年3月25日放送)
脚本:安藤日出男
監督:高瀬昌弘
〔本のおはなし〕
なまあたたかい晩春の夕暮れであった
それでいて微かな夕凪は冷んやりと肌にこころよく、この季節の夕暮れどきは、平蔵がもっとも好むところのものである
金杉から坂本を経て、平蔵は車坂へさしかかった
「もし・・・・・・ええ、御武家さま。もし・・・・・・もし・・・・・・」
右手に鬱蒼たる上野の杜をのぞむ車坂の道すじに、まだ人通りは絶えていない
いつの間にか平蔵の背後へ寄りそって来た男が、ささやくように声をかけて来たのだ
六十がらみの老顔が、夕闇の中で微笑している
白髪の小さな髷もきれいにしてあるし、細面の品のよい顔だちだが、ちょっと平蔵の目にも、
(このおやじ、何の稼業か・・・・・・?)
見当がつきかねた
筒袖の着物の上へ、盲縞の鯉口を羽織り、紺足袋に麻裏草履といういでたちである。どうにもちぐはぐな風体なのだが、この老爺にはぴたりとはまっている
「お側へ寄りましても、よろしゅうございましょうか?」
声音が、しわがれていてもやさしげなのだ
「あったかくなりましてございますねえ」
「花も散った。すぐに、夏よ」
いくぶん、平蔵から身を引くようにしながら歩調を合せ、
「どちらへ、お出かけでございます?」
「ぶらぶらと、な・・・・・・」
にんまりとして長谷川平蔵が、
「おやじ」
「へ・・・・・・」
「何か、おもしろいところでもあるのか?」
とりあえず、そう訊いて見た
得体の知れぬ相手ではあるが、前後の様子から、この問いかけがいちばん適当だとおもったまでだ
「御武家さまのような御方には、かえってめずらしいかと存じますので・・・・・・」
「ふむ・・・・・・」
「若い、みずみずしい、あまり男の手がかかっておりませぬ町娘でございますが・・・・・・」
「遊ばせると申す・・・・・・?」
平蔵も、これまでにずいぶんと、いろいろな体験をしているが、素人女を世話されようとしたのは、これがはじめてであった
「貧乏な職人のむすめなのでございますが、父親が重い病気にかかってしまいまして、どうにもなりませぬ。薬代ばかりか、一家四人が食べて行けぬことになりましたので、たまに、その、お客をとるのでございます。御親切な、口のお堅いお人柄とお見うけし、おすすめをするのでございますが、いかがでしょうか!?」
行く手に、山下の盛り場の灯火が明るい
「では、たのもうか」
と、平蔵がいった
上野山下から黒門口へ出た老爺は、長谷川平蔵の先に立ち、不忍池から下谷・三味線堀へながれ入る忍川にかかった御橋をわたり、右へ折れた
この道は、不忍池をのぞむ池ノ端仲町の裏通りである
「さ、こちらでございます」
細い路地口を入った突当りに、格子戸がはまってい、これを入ると、水を打った石畳の片隅に篠竹が植え込まれている
家の中は、おもいのほかに小ぎれいで、奥深かった
平蔵が通されたのは、二階の二間つづきの座敷だ
このときまで、家の中からはだれもあらわれず、老いた阿呆烏が自分の家のように平蔵を案内したのである
声をかけてから此処へ来るまでの間に、爺はすっかり、平蔵に気をゆるしてしまったらしい。にこにこと笑いながら座敷を出て行った
入れかわりに、五十前後の座敷女中が入って来て茶を出す。その茶をのみ終えたころに、酒肴を運んで来た
なかなか、手ぎわがよい
平蔵は、間(あい)の襖を開けて見た。奥の小座敷の、行燈の淡い灯影に、なまめかしい夜具が早くも敷きのべられてあった
平蔵が、にやりとした
(役宅のだれもかれも・・・・・・いや、久栄とて、いま、わしがこのようなところにいるとはおもうまい)
であった
やがて、
件の阿呆烏が小さな白髪頭をのぞかせ、
「よろしゅうございましょうか、むすめを、つれてまいりましたが・・・・・・」
と、いわれたときには、
「む・・・・・・」
さすがの長谷川平蔵が眼を伏せてしまい、照れくさそうにうなずいたのである
爺が、むすめを座敷へ押し入れるようにして、
「では、ごゆるりと・・・・・・」
襖を閉めて、去った
むすめは、両手をついて頭を伏せたまま、上げ得ない。古着を買って縫い直したらしい黄八丈を大柄な躰にまとい、髪もどうやらゆいあげてはいるが、しめている帯を何も、すべてがちぐはぐであった
しかし、ようやくに化粧の気もない顔をあげ、伏目がちに躰を堅くしている初々しさ、きっちりと合せたえりもとからのぞいている白い項(うなじ)から喉もとへかけて、いかにも、
「むすめむすめした・・・・・・」
凝脂が照っている
「これ、いくつになる」
「十七、でございます」
「名は?」
「あの・・・・・・おみよと申します」
半刻余がすぎ、長谷川平蔵がおみよの後から階下へ下りて行くと、先刻の女中が出て来て、頭を下げた、平蔵は酒肴の代を払い、
「おみよ、また、な・・・・・・」
路地を出て、池ノ端の闇へ消えて行った長谷川平蔵を見送ってから、
「さ、お前も、お帰り」
と、女中がいい、紙に包んだ金をわたした
夜に入ったばかりで、上野山下の灯火は、まだ明るい
ぶら提灯を片手に、急ぎ足で帰って行くおみよのうしろへ、いつの間にか長谷川平蔵があらわれ、後をつけはじめた
〔ひら井〕の女中は、おみよが出て行くと、すぐに階下の一間へ入った
そこに、これも五十がらみの男が酒肴の膳を前にして、煙草を吸っていた。小肥りの精悍な面構えなのだが、身なりは贅沢だ。物堅い商家のあるじというよりも、どこぞの料理茶屋のあるじのように見える
髭の剃りあとが青々としている男の上唇の中程が、まくれあがるように裂けていた。傷あとではない。先天的に裂けている、つまり〔兎唇(みつくち)〕なのであった
「ほんにまあ、あきれたものだよ。あんな小むすめがさ。顔中にべっとりと汗をかいているのだからね。よっぽど、いいおもちゃにされたのだろうが・・・・・・ふん、まんざらでもない顔つきで、客の顔を見ていやがるのだもの、あきれてしまうよ」
と、女中が男にいった
「あの、さむらいを、お前は何とおもう?」
「何と、おもうって・・・・・・何が・・・・・・?」
「おれにとっては、忘れようにも忘れられねえ面だ」
「だれなのだよ?」
「長谷川平蔵・・・・・・」
「げえっ・・・・・・」
女の手から、盃が膳の上へ音を立てて落ちた。。。
〔主な登場人物〕
長谷川平蔵(中村吉右衛門)
与平(花沢徳衛)
おはる(宮沢美保)
おろく(工藤明子)
神崎の倉治郎(田中浩)
夜ぎつねの富造(坂本長利)
久栄(多岐川裕美)
木村忠吾(尾美としのり)
伊三次(三浦浩一)
〔盗賊〕
・神崎の倉治郎:急ぎ盗めの盗賊。押し入って殺傷をし、金品を奪う畜生ばたらきゆえに、配下の盗賊も少なく、合わせて十五名
〔商家〕
・和泉屋:神田・昌平橋前の湯島三丁目代地にある古手呉服屋
〔料理帳・本〕
参詣をすませた富造夫婦が、一ノ鳥居の手前にある茶店へ入り、団子と渋茶で足を休めている前を、平蔵はゆっくりと通りぬけ、一ノ鳥居をくぐり、茶店の裏につないであった愛馬へまたがり、参道を遠ざかって行く
銀杏の落葉が一つ、平蔵の笠の上へ舞い下りて来て、そこにとまった
〔料理帳・ドラマ〕
近江やの羽衣煎餅、平蔵が久栄へのみやげに
久栄「おひとつどうぞ」
平蔵「お前も半分」
久栄「甘からず、辛からず、地は越後のとびきりのもち米。このやわらかな砂糖煎餅のお味は、到底、殿方にはわかりませぬ」
平蔵「ん、あっ、これはなるほど辛口の酒の肴にぴったりだなあ」
〔ドラマでのアレンジ〕
さすがにドラマでは、兎唇ではなく、もみあげのところに刀傷があると変わっている。原作では平蔵が腹痛の岸井左馬之助を見舞うが、ドラマでは風邪をひいた相模の彦十を見舞い、女難の相が顔に出ていると言われてしまう。また、おみよがドラマではおはるになっている。おはるを長屋から連れ出すのに、忠吾がとっさにしゃく(腹痛)を装うのはドラマオリジナル。