尻毛の長右衛門〔しりげのちょうえもん〕
初出掲載誌 『オール讀物』 昭和五十一年ニ月号
文春文庫 『鬼平犯科帳(十四)』
TV 第三シーズン60話『尻毛の長右衛門』(92年3月18日放送)
脚本:久喜千彩子
監督:小野田嘉幹
〔本のおはなし〕
丈余におよぶ大きな辛夷(こぶし)の木が、白い花をひらいていた
春の夜の闇の中で抱き合っている布目の半太郎とおすみの躰は、気味わるいまでに汗ばんでい、束の間の烈しい愛撫が終って、男の躰が離れようとするのへ、おすみは呻き声をもらし、
「いやだ、もう・・・・・・こんなところで、こんなことをするのは、いや、いや・・・・・・」
嫌だといいながら、女の双腕(もろうで)には恐ろしいほどのちからがこもっている
ここは、押上の報恩寺裏の、木立の中であった
「仕方がねえじゃねえか。いまのところ、こうするよりほかに、お前と・・・・・・」
「勝手なことばかり、いっているのだから、半太郎さんは・・・・・・」
「だって、お前・・・・・・いまの、おれたちの役目を忘れてはいけねえ。お前は、橋本屋へ引き込みに入っているのだし、おれは連絡(つなぎ)をしているのだから・・・・・・」
「わかっています」
「もう直きだ。な、もう直きだよ、おすみ。今度のお盗めがすんだら、おれは、お頭に、お前とのことを申しあげるつもりだ」
髪を直しているおすみの耳朶へ口をあてて、半太郎は軽く噛みしめた
おすみが低く唸り、半眼の顔を仰向けて、いまにも倒れかかるばかりになるのを抱きしめ、
「おい、大丈夫か?」
「ひどい人・・・・・・」
仕方もなく立ちあがったおすみが、
「今度のつなぎは明後日だねえ?」
「そうだ、押し込みの日もせまっているから、いちいち念を入れろ、と、お頭がそういいなさる」
「そのときも、夜になったら、此処へ来るの?」
「嫌か?」
「半太郎さんの、ばか」
おすみが半太郎の手をぴしゃりと叩き、木立から出て行った
半太郎、ためいきを吐いた
この近くの、本所吉田町二丁目にある薬種問屋・橋本屋伊兵衛へ盗みに押し込む夜は十日後にせまってい、いまが、いちばん大事な期(とき)だというのに、
(布目の半太郎ともあろう者が、こんな、だらしのねえことをしていていいものか・・・・・・)
舌打ちをしながら、半太郎は木立を出た
生あたたかく曇った夜の道に、もう、おすみの姿は見えなかった
布目の半太郎は、一年前に、尻毛の長右衛門の配下となった。それまでは、ずっと〔ながれ盗め〕をしており、諸方の盗賊の間をわたり歩いていたのだ
ちょうど二十八になった半太郎は、盗賊として充分のはたらきができる男で、つなぎをつとめるにはもったいないほどなのだが、そこは新参ゆえ、
「ま、今度はひとつ、我慢をしてくれ」
と、尻毛の長右衛門が、わざわざ念を入れたほどだ
(おすみの、あの躰は生得のものだ。躰の中に泥鰌が百匹も棲んでいやがる・・・・・・)
横川辺りの道を、提灯もなしに南へ歩みつつ、布目の半太郎の色白の細面に、こらえようとしてもこらえきれぬ薄笑いがうかんだ
いつの間にか、雨が落ちて来たが、それさえも半太郎は気にならぬ
汗は引いても、火照りは引かぬ顔や頭を濡らす春の雨が、こころよかった
尻毛の長右衛門は、駿河・三河・遠江の東海地方で盗めをすることが多い
尻毛一味の、江戸における本拠は、深川清住町の霊雲寺門前に近い万年橋の南詰にある
その一角にある〔利根屋八蔵〕という釣道具屋が、それであった
おすみを抱いた翌日
布目の半太郎は利根屋へ行き、前日の連絡の報告を長右衛門にした
「そうかい、そうかい。そんなぐあいならば、先ず大丈夫だ」
と、尻毛の長右衛門は、半太郎の報告を聞いて上機嫌になり、すぐに、酒肴を二階へ運ばせた
「まあ、ひとつ、おやり」
と、長右衛門が半太郎の盃へ酌をしてくれた
盃を重ねるうち、尻毛の長右衛門が、ふと、あらたまったように、
「こんなことは、古い手下の者にはいえねえので、新参、といってはすまねえが、お前の意見を聞きたいことがあるのだよ」
「へえ・・・・・・?」
「実は、なあ・・・・・・」
「へえ・・・・・・?」
「その、なあ・・・・・・」
と、尻毛の長右衛門が変に煮え切らないのだ
長い鼻の下を小指で撫でたり、さすったりしながら、上眼づかいに、半太郎の顔を見て、照れくさそうにしている
ついに、おもいきったかのように長右衛門が、
「わしは、もう五十二になってしまったが、三十余も年下の女を、女房にしては可笑しいかね?」
と、いったものである
半太郎は言下に、
「ちっとも可笑しいことはございませんよ」
と、こたえた
「そ、そうかい。ほんとうに、そうおもってくれるかい」
「へえ」
「今度のお盗めがすんだら、わしは、その女と夫婦になるつもりだよ」
「さようで・・・・・・」
と、布目の半太郎は長右衛門の盃へ酌をした。そのとき、半太郎も、
(よし、いまだ。いまがいい。いまなら、お頭も、きっと、おれとおすみのことをゆるしておくんなさるだろう)
とっさに決心して、酌をした銚子を置き、
「実は、私も・・・・・・」
いいかけようと口を開けるより早く、尻毛の長右衛門が、こういった
「なあ、布目の。その女というなあ、実は、引き込みのおすみなのだよ」
糸瓜顔を真赤にして、うつむいたまま語る尻毛の長右衛門の前で、半太郎は躰中の血がたちまちに冷えてゆくのを感じていた
そのとき、藤坂の重兵衛という中年の盗賊が顔を出さなかったら、半太郎は、どうやって、その場の自分をあつかったらよいのか途方に暮れたろう
「それでは、私は、これで・・・・・・」
うつむいたまま半太郎は、重兵衛に席をゆずり、階下へ降りて行った
その背中へ
「布目の。ありがとうよ」
何も知らぬ長右衛門の明るい声が追いかけてきた
そのころ
女密偵のおまさが、火盗改方役宅の門を入って行った
前夜、平蔵からたのまれた橋本屋の養明丹を届けに来たのである
「実は・・・・・・」
おまさがいうには、先刻、橋本屋の前まで来ると、台所へ通じる通路から下女がひとりあらわれ、どこかへ出て行った
「以前、その下女にそっくりな女を、私は知っておりました」
「ふうむ・・・・・・?」
「その女はお新という名前で、亭主の市之助は、私の死んだお父つぁんの友だちでございました」
「そやつも盗賊か?」
「はい、市之助は、もう亡くなっているはずでございます。女房のお新は、たしか・・・・・・たしか、尻毛の長右衛門のところで引き込みをしているはずなので・・・・・・」
「何、尻毛の長右衛門だと・・・・・・」
〔主な登場人物〕
長谷川平蔵(中村吉右衛門)
布目の半太郎(堤大二郎)
おすみ(水野真紀)
尻毛の長右衛門(小林昭二)
おまさ(梶芽衣子)
相模の彦十(江戸家猫八)
小房の粂八(蟹江敬三)
久栄(多岐川裕美)
塚原の元右衛門(穂高稔)
藤坂の重兵衛(伊吹聰太朗)
為七(奥久俊樹)
〔盗賊〕
・布目の伊助:半太郎の父親で、いまは亡き大盗・蓑火の喜之助の配下
・〔鷹田の平十〕:盗賊あがりの老口合人。半太郎を長右衛門に口ききした
・駒屋万吉:亡き蓑火の喜之助配下の盗賊。半太郎の父親とも仲がよく、蓑火のお頭が引退の折、一味の者たちへたっぷりと分けあたえた金で、故郷の上州へ帰り、妙義山で旅籠をはじめた
〔商家〕
・岩附屋新三郎方:神田鍋町の茶問屋。長右衛門一味が、一人の殺傷もせず、千八百七十余両を盗んで消えた。このときは、長谷川平蔵が懸命の探索にもかかわらず、尻毛一味は、まんまと江戸を抜け出してしまっている
〔料理帳・本〕
〔料理帳・ドラマ〕
軍鶏の臓物鍋、彦十、おまさ、粂八、五鉄にて
〔ドラマでのアレンジ〕
ドラマではおまさに諭されたおすみが改心し、平蔵の計らいで、そのまま商家で働くことになる。
原作では口合人は鷹田の平十であるが、ドラマでは塚原の元右衛門となっている。
平蔵「いや、しかし、それにしても、若い女というものはずいぶんと思い切ったことをするものよのう」
久栄「若いおなごには誰しも、何をしでかすか知れない烈しいものがあるのではござりませぬか?ただ、それを表に出すかどうかの違いでござりましょう」
平蔵「ほう、ふたりとも思い当たる節がありそうだな」
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初出掲載誌 『オール讀物』 昭和五十一年ニ月号
文春文庫 『鬼平犯科帳(十四)』
TV 第三シーズン60話『尻毛の長右衛門』(92年3月18日放送)
脚本:久喜千彩子
監督:小野田嘉幹
〔本のおはなし〕
丈余におよぶ大きな辛夷(こぶし)の木が、白い花をひらいていた
春の夜の闇の中で抱き合っている布目の半太郎とおすみの躰は、気味わるいまでに汗ばんでい、束の間の烈しい愛撫が終って、男の躰が離れようとするのへ、おすみは呻き声をもらし、
「いやだ、もう・・・・・・こんなところで、こんなことをするのは、いや、いや・・・・・・」
嫌だといいながら、女の双腕(もろうで)には恐ろしいほどのちからがこもっている
ここは、押上の報恩寺裏の、木立の中であった
「仕方がねえじゃねえか。いまのところ、こうするよりほかに、お前と・・・・・・」
「勝手なことばかり、いっているのだから、半太郎さんは・・・・・・」
「だって、お前・・・・・・いまの、おれたちの役目を忘れてはいけねえ。お前は、橋本屋へ引き込みに入っているのだし、おれは連絡(つなぎ)をしているのだから・・・・・・」
「わかっています」
「もう直きだ。な、もう直きだよ、おすみ。今度のお盗めがすんだら、おれは、お頭に、お前とのことを申しあげるつもりだ」
髪を直しているおすみの耳朶へ口をあてて、半太郎は軽く噛みしめた
おすみが低く唸り、半眼の顔を仰向けて、いまにも倒れかかるばかりになるのを抱きしめ、
「おい、大丈夫か?」
「ひどい人・・・・・・」
仕方もなく立ちあがったおすみが、
「今度のつなぎは明後日だねえ?」
「そうだ、押し込みの日もせまっているから、いちいち念を入れろ、と、お頭がそういいなさる」
「そのときも、夜になったら、此処へ来るの?」
「嫌か?」
「半太郎さんの、ばか」
おすみが半太郎の手をぴしゃりと叩き、木立から出て行った
半太郎、ためいきを吐いた
この近くの、本所吉田町二丁目にある薬種問屋・橋本屋伊兵衛へ盗みに押し込む夜は十日後にせまってい、いまが、いちばん大事な期(とき)だというのに、
(布目の半太郎ともあろう者が、こんな、だらしのねえことをしていていいものか・・・・・・)
舌打ちをしながら、半太郎は木立を出た
生あたたかく曇った夜の道に、もう、おすみの姿は見えなかった
布目の半太郎は、一年前に、尻毛の長右衛門の配下となった。それまでは、ずっと〔ながれ盗め〕をしており、諸方の盗賊の間をわたり歩いていたのだ
ちょうど二十八になった半太郎は、盗賊として充分のはたらきができる男で、つなぎをつとめるにはもったいないほどなのだが、そこは新参ゆえ、
「ま、今度はひとつ、我慢をしてくれ」
と、尻毛の長右衛門が、わざわざ念を入れたほどだ
(おすみの、あの躰は生得のものだ。躰の中に泥鰌が百匹も棲んでいやがる・・・・・・)
横川辺りの道を、提灯もなしに南へ歩みつつ、布目の半太郎の色白の細面に、こらえようとしてもこらえきれぬ薄笑いがうかんだ
いつの間にか、雨が落ちて来たが、それさえも半太郎は気にならぬ
汗は引いても、火照りは引かぬ顔や頭を濡らす春の雨が、こころよかった
尻毛の長右衛門は、駿河・三河・遠江の東海地方で盗めをすることが多い
尻毛一味の、江戸における本拠は、深川清住町の霊雲寺門前に近い万年橋の南詰にある
その一角にある〔利根屋八蔵〕という釣道具屋が、それであった
おすみを抱いた翌日
布目の半太郎は利根屋へ行き、前日の連絡の報告を長右衛門にした
「そうかい、そうかい。そんなぐあいならば、先ず大丈夫だ」
と、尻毛の長右衛門は、半太郎の報告を聞いて上機嫌になり、すぐに、酒肴を二階へ運ばせた
「まあ、ひとつ、おやり」
と、長右衛門が半太郎の盃へ酌をしてくれた
盃を重ねるうち、尻毛の長右衛門が、ふと、あらたまったように、
「こんなことは、古い手下の者にはいえねえので、新参、といってはすまねえが、お前の意見を聞きたいことがあるのだよ」
「へえ・・・・・・?」
「実は、なあ・・・・・・」
「へえ・・・・・・?」
「その、なあ・・・・・・」
と、尻毛の長右衛門が変に煮え切らないのだ
長い鼻の下を小指で撫でたり、さすったりしながら、上眼づかいに、半太郎の顔を見て、照れくさそうにしている
ついに、おもいきったかのように長右衛門が、
「わしは、もう五十二になってしまったが、三十余も年下の女を、女房にしては可笑しいかね?」
と、いったものである
半太郎は言下に、
「ちっとも可笑しいことはございませんよ」
と、こたえた
「そ、そうかい。ほんとうに、そうおもってくれるかい」
「へえ」
「今度のお盗めがすんだら、わしは、その女と夫婦になるつもりだよ」
「さようで・・・・・・」
と、布目の半太郎は長右衛門の盃へ酌をした。そのとき、半太郎も、
(よし、いまだ。いまがいい。いまなら、お頭も、きっと、おれとおすみのことをゆるしておくんなさるだろう)
とっさに決心して、酌をした銚子を置き、
「実は、私も・・・・・・」
いいかけようと口を開けるより早く、尻毛の長右衛門が、こういった
「なあ、布目の。その女というなあ、実は、引き込みのおすみなのだよ」
糸瓜顔を真赤にして、うつむいたまま語る尻毛の長右衛門の前で、半太郎は躰中の血がたちまちに冷えてゆくのを感じていた
そのとき、藤坂の重兵衛という中年の盗賊が顔を出さなかったら、半太郎は、どうやって、その場の自分をあつかったらよいのか途方に暮れたろう
「それでは、私は、これで・・・・・・」
うつむいたまま半太郎は、重兵衛に席をゆずり、階下へ降りて行った
その背中へ
「布目の。ありがとうよ」
何も知らぬ長右衛門の明るい声が追いかけてきた
そのころ
女密偵のおまさが、火盗改方役宅の門を入って行った
前夜、平蔵からたのまれた橋本屋の養明丹を届けに来たのである
「実は・・・・・・」
おまさがいうには、先刻、橋本屋の前まで来ると、台所へ通じる通路から下女がひとりあらわれ、どこかへ出て行った
「以前、その下女にそっくりな女を、私は知っておりました」
「ふうむ・・・・・・?」
「その女はお新という名前で、亭主の市之助は、私の死んだお父つぁんの友だちでございました」
「そやつも盗賊か?」
「はい、市之助は、もう亡くなっているはずでございます。女房のお新は、たしか・・・・・・たしか、尻毛の長右衛門のところで引き込みをしているはずなので・・・・・・」
「何、尻毛の長右衛門だと・・・・・・」
〔主な登場人物〕
長谷川平蔵(中村吉右衛門)
布目の半太郎(堤大二郎)
おすみ(水野真紀)
尻毛の長右衛門(小林昭二)
おまさ(梶芽衣子)
相模の彦十(江戸家猫八)
小房の粂八(蟹江敬三)
久栄(多岐川裕美)
塚原の元右衛門(穂高稔)
藤坂の重兵衛(伊吹聰太朗)
為七(奥久俊樹)
〔盗賊〕
・布目の伊助:半太郎の父親で、いまは亡き大盗・蓑火の喜之助の配下
・〔鷹田の平十〕:盗賊あがりの老口合人。半太郎を長右衛門に口ききした
・駒屋万吉:亡き蓑火の喜之助配下の盗賊。半太郎の父親とも仲がよく、蓑火のお頭が引退の折、一味の者たちへたっぷりと分けあたえた金で、故郷の上州へ帰り、妙義山で旅籠をはじめた
〔商家〕
・岩附屋新三郎方:神田鍋町の茶問屋。長右衛門一味が、一人の殺傷もせず、千八百七十余両を盗んで消えた。このときは、長谷川平蔵が懸命の探索にもかかわらず、尻毛一味は、まんまと江戸を抜け出してしまっている
〔料理帳・本〕
「五郎蔵、腹が空いているのではないか」
「いいえ、別に・・・・・・それよりも長谷川様。奥様のおかげんは、いかがなんでございます?」
「ありがとうよ。橋本屋の養明丹が効いたようだ。先刻、粥を二膳も食べてな」
〔料理帳・ドラマ〕
軍鶏の臓物鍋、彦十、おまさ、粂八、五鉄にて
〔ドラマでのアレンジ〕
ドラマではおまさに諭されたおすみが改心し、平蔵の計らいで、そのまま商家で働くことになる。
原作では口合人は鷹田の平十であるが、ドラマでは塚原の元右衛門となっている。
平蔵「いや、しかし、それにしても、若い女というものはずいぶんと思い切ったことをするものよのう」
久栄「若いおなごには誰しも、何をしでかすか知れない烈しいものがあるのではござりませぬか?ただ、それを表に出すかどうかの違いでござりましょう」
平蔵「ほう、ふたりとも思い当たる節がありそうだな」
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