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網虫のお吉

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網虫のお吉〔あみむしのおきち〕
初出掲載誌 『オール讀物』 昭和五十二年三月号
文春文庫 『鬼平犯科帳(十六)』
TV 第三シーズン57話『網虫のお吉』(92年2月26日放送)
脚本:下飯坂菊馬
監督:高瀬昌弘

鬼平犯科帳〈16〉 (文春文庫)

鬼平犯科帳〈16〉 (文春文庫)

  • 作者: 池波 正太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2000/10
  • メディア: 文庫



鬼平犯科帳 第3シリーズ《第9・10話収録》 [DVD]

鬼平犯科帳 第3シリーズ《第9・10話収録》 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 松竹ホームビデオ
  • メディア: DVD


〔本のおはなし〕
切なげな、苦しげな、女の喘ぎが、壁を通して、はっきりとつたわってくる

女の裸身をさいなみ、嬲りつくしている男の気配は尚更によくわかった

まさに、嬲っているとしかおもわれなかった

女の喘ぎは、官能に我を忘れたものでもなく、男とのまじわりのよろこびのためのものでもない

「嫌で嫌で、たまらぬ男・・・・・・」

の、いうままになっているらしい

「こいつ、もっと、こうしろ」

とか、

「ふふん・・・・・・こんなに汗をかいていやがるくせに・・・・・・」

とか、

「ばか。何で、そっちを向くのだ。ちゃんとしろ、ちゃんと・・・・・・」

とか、男が卑猥な言葉を投げつけながら、荒々しくうごきまわっている

壁一つをへだてた小さな部屋で息を殺しつつ、となりの座敷の乱行を盗み聞いているのは、火付盗賊改方・同心の小柳安五郎であった

そして・・・・・・

隣室で、いま女を嬲りつくしている男は、同僚の黒沢勝之助なのである

むろん、黒沢同心は、同僚の小柳安五郎が此処まで、自分と女を尾行して来たとは、知るよしもない

此処は、上野の不忍池のほとりにある〔月むら〕という出合茶屋の、奥庭に面した座敷で、いま、小柳が潜んでいる小部屋は客座敷ではない

出合茶屋のようなところでは、このような小部屋が二つ三つは、かならず設けてある

というのは、何しろ男女の密会のために商売をしているのだから、たとえば顔を合わせてはならぬ客どうしが入って来るとか、不義密通の場面をつきとめようと乗り込んで来る者もあって、そうしたときに、客を隠すための小部屋が必要になるのだ

半刻(一時間)ほど前に、黒沢同心と女が、この〔月むら〕へ入るのを見とどけたのち、小柳は〔月むら〕に入って行き、

「盗賊改方の、小柳安五郎という者だ」

はっきりと名乗り、隠し部屋へ案内させた

黒沢勝之助のほうは、市中見廻りの変装をしており、月代ものばしたままの浪人姿であったし、むろん、女を連れ込むに「盗賊改方」と名乗るはずはない

それに引きかえ、今日の小柳は紋つき羽織・袴を身につけた正装である

この日

小柳安五郎は、久しぶりに、亡き妻と子の墓詣りをするため、朝のうちに役宅内の長屋を出た

妻子亡きのちの小柳は、いまだに独身をまもっている

妻のみつは初産で、男の子を生み落とすと共に息絶え、非常に難産であったため、生まれた子も、その日のうちに亡くなってしまったのだ

小柳家の墓は、浅草・阿部川町の竜源寺にある

薄曇りの空の下を、小柳安五郎は両国橋をわたり、浅草御門を出て神田川に沿った河岸道を西へ歩みはじめた

この日、小柳は浅目の編笠をかぶっていた

たとえ非番であっても、これが盗賊改方の心得というものである

おもえば、小柳の、この心がけがよかったといえよう

平右衛門町の河岸道へさしかかったとき、小柳安五郎の顔色が編笠の中で、すこしばかり変わった

すぐ先の〔井ノ口屋〕という船宿から出て来た中年の浪人者と、二十五、六の町女房ふうの女を見たからだ

二人とも、小柳には見おぼえがある

一人は、同僚の黒沢勝之助だから、三日に一度は顔を合わせているわけだし、女のほうは・・・・・・むしろ、この女に、小柳はおどろいた

この女、網虫のお吉と異名を取った女賊だったからである

網虫とは〔もうちゅう〕ともいい、つまり、蜘蛛の別名なのだ

網虫のお吉は、盗賊・苅野の九平一味の女賊であることを、小柳安五郎はわきまえている

人相書も廻っているし、小柳自身、お吉の顔を見てもいた

そのお吉と、同心・黒沢勝之助が共に船宿からあらわれ、待たせてあった町駕籠へ、お吉を黒沢が押し込むように乗せ入れた

そして、河岸道を西へ行く駕籠に、編笠をかぶった黒沢がぴたりと付きそい、遠ざかって行く

(はて・・・・・・?)

小柳は不審におもい、われ知らず、その後を尾けはじめた

船宿からあらわれ、歩み去るまでの二人の様子には、小柳の目から見て、

(どうも尋常ではない・・・・・・)

ものが感じられた

女賊・お吉と黒沢との間には、今日、はじめて顔を合わせたというのではなく、それでいて、黒沢の強制にお吉が逆らいかねている様子が見えた

そもそも、

(あの二人、船宿で何をしていたのか・・・・・・)

このことであった

また、お吉の相手が、もしも木村忠吾や酒井祐助であったなら、小柳の観察も、おのずとちがっていただろう

同心・黒沢勝之助は、盗賊改方の同僚や密偵たちにも、それこそ鼻つまみの嫌な奴だったのである

いまは亡き密偵の伊三次が、いつであったか、たまりかねたように小柳安五郎へ、こう洩らしたこともあった

「黒沢の旦那というなあ、自分(おの)が手柄のためには、どんな外道でもなさるお人でございますよ」

そのとき小柳が「それはどういうことだ?」と、深く問い返したなら、伊三次は、黒沢についての、何か具体的な事例をあげたやも知れぬ

むしろ、それを、伊三次は待っていたかのようであったが、あえて小柳は問いつめなかった


同心・黒沢勝之助と網虫のお吉が、不忍池畔の出合茶屋〔月むら〕を出たのは、夜に入ってからだ

かなり長い間、黒沢はお吉の躰を文字どおり、

「むさぼりつくした・・・・・・」

といってよい

壁をへだてて、黒沢の情欲の凄まじさ、執拗さには、さすがの小柳安五郎も辟易したが、

「いいか・・・・・・おれはな、喰らいついたら、決してはなれぬぞ」

とか、

「お前が白状をせぬかぎり、こうして、おれの相手をしなくてはならぬのだ。そこのところを、よく考えろ」

とか、

「いまの、お前の亭主は何も知らずにいるが、こんなことをいつまでもつづけていたら、きっと勘づかれるぞ」

などと、お吉を嬲りながらいう黒沢勝之助の声が、小柳を釘づけにしてしまった

(これは、いったい、どういうことなのか・・・・・・?)

〔月むら〕を出て行く二人の後から、小柳安五郎も外へ出た


網虫のお吉は、いまは、日本橋橘町三丁目に住む琴師・歌村清三郎の後妻(のちぞえ)に入っている

歌村清三郎は当年五十二歳で、京都の生まれだそうな

年少のことから、京の建仁寺四条下ルところの、名人といわれた琴師・歌村七郎右衛門に仕込まれ、二十八歳のときに独立をし、師匠の世話で江戸へ移って来た

亡妻との間に二人のむすめがおり、これは、もうそれぞれに嫁いでいるし、二人の弟子と小女、それにお吉の五人暮しなのだ

この、歌村清三郎については、

「何ら、怪しむべきものはない・・・・・・」

ことが、間もなく小柳安五郎の探索でわかった

それはさておき、女族のお吉が去年の秋に、どうしたことから歌村清三郎の後妻に入ることになったかといういと・・・・・・


〔主な登場人物〕
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長谷川平蔵(中村吉右衛門)

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黒沢勝之助(磯部勉)

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網虫のお吉(風祭ゆき)

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木村忠吾(尾美としのり)

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おまさ(梶芽衣子)

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小房の粂八(蟹江敬三)

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佐嶋忠介(高橋悦史)

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久栄(多岐川裕美)

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歌村清三郎(佐原健二)

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志村軍造(山本昌平)


〔盗賊〕
・平尾の徳次郎:苅野一味の盗人(かせぎにん)。駿府(静岡)の扇子屋で三村屋徳太郎夫婦というふれこみで、網虫のお吉と梅屋に宿泊した


〔商家〕
・〔梅屋嘉右衛門〕方:木挽町四丁目の四代つづいている宿屋。三年ほど前に、浅草の奥山で、おまさが網虫のお吉をみかけた時に、お吉が泊っていた

・丁子屋四郎太郎方:本所四ツ目の呉服問屋。苅野の九平一味が押しこむことになっていた

・〔福本〕:井ノ口屋の隣の蕎麦屋


〔料理帳・本〕
湯島横町の菓子舗(みせ)・近江屋で売り出している〔羽衣煎餅〕が長官夫人・久栄の大好物であることをおもい出したからだ
命がけの御役目だけに、長官夫妻と組下の同心たちとの間は、必然、このように親密な心情が通い合うことになる


〔料理帳・ドラマ〕
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六間堀のあべかわ、平蔵と忠吾、役宅にて


〔ドラマでのアレンジ〕
黒沢同心とお吉の間柄を見つけたのは原作では小柳安五郎だが、ドラマでは木村忠吾になっている。ドラマでは黒沢に対して平蔵が温情をかけてやるが、原作では敢えて温情はかけない。

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平蔵「女は怖い。あんな黒沢でも、お吉のひろげた網の中では、ただ悶えるばかりであった」
久栄「お吉は、そんな自分の恐ろしさに気づいていなかったのでございましょうか?」
平蔵「いや、それがわかって亭主の前から姿を消したのであろうよ。自分で自分がおぞましくなってな。げに恐ろしきはおなごだのう」
久栄「あたくしもおなごでございますよ、殿さま」
平蔵「う、うん・・・・・・。そなたは別じゃ・・・・・・」

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